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第1章 シャーロック・ホームズという人物(1)
日期:2023-10-30 15:04  点击:294
緋色の研究 
緋色の研究

第Ⅰ部 元陸軍医師ジョン・H・ワトスン博士の回想録より
 

第1章 シャーロック・ホームズという人物

 私は一八七八年にロンドン大学で医学博士号を取得したあと、ネトリー陸軍病院に移って軍医になるための研修を受けた。課程修了後は軍医補として第五ノーサンバランド・フュージリア連隊へ配属されることが決まり、ここまでは順調に事が運んだ。大変なのはそれからだった。当時、同連隊はインドに駐屯していたが、私がまだ入営しないうちに第二次アフガン戦争が勃ぼつ発ぱつしてしまったのだ。ボンベイの地に降り立ったときには、連隊はすでに山岳地帯へ進軍を開始し、早くも敵陣の奥深く攻め入っていると知らされた。私はそれでもくじけず、同様に取り残されていた将校たちと一緒にあとを追った。そして無事にカンダハルに達すると、連隊と首尾よく合流を果たし、さっそく新しい任務に就いたのだった。

 その戦争では、武勲を立てて昇進を手にした軍人が大勢いたというのに、私は不運と災難にばかり見舞われた。途中でバークシャー連隊へ転属となり、あの壮絶きわまるマイワンドの戦闘に臨んだのが運の尽きだった。激戦のさなか敵のジェザイル弾を肩に食らって、骨が砕けたばかりか鎖骨下動脈にまで損傷を受け、残忍なイスラム兵の手に落ちるのを待つばかりとなった。それほどの危機に瀕ひんしても生き延びたのは、ひとえに私の当番兵マリーの勇敢で献身的な行動のおかげである。彼は私を担ぎあげて荷馬に乗せ、イギリス軍のもとへ連れ帰ってくれたのだ。

 激痛に憔しよう悴すいし、たび重なる苦難で体力を消耗していた私は、ほかの多数の負傷兵たちとともに戦線から離され、ペシャワール基地の野戦病院へ収容された。その後は少しずつ快方に向かい、病棟内を歩きまわったり、ときにはベランダで日光浴ができるまでになった。ところがその矢先、今度はわが国によるインド統治の報いであろうか腸チフスにやられてしまった。危篤に陥って何ヶ月も生死の境をさまよった末、ようやく回復の兆しが見えたものの、あまりに衰弱が激しかったため、医務局は一刻も早くイギリスへ送還すべきだと判断した。かくして私は兵員輸送船オロンテーズ号に乗せられ、一ヶ月後、ポーツマス港で再び母国の土を踏んだのだった。しかし健康状態は最悪で、もはや回復不能ではないかと思われた。療養に努めるようにと、温情あふれる政府が九ヶ月間の休暇を認めてくれたのがせめてもの救いだった。

 イギリスに戻っても友人や親類は一人もいなかったから、私は空気のように自由だった──といっても、一日あたり十一シリング六ペンスという軍の給料でまかなえる範囲での自由だが。そういった事情で、私は吸い寄せられるがごとくロンドンへ向かった。大英帝国の隅々から暇をもてあました有象無象が流れこんでくる、巨大な汚水溜だめともいうべき大都会へ。ロンドンに着くと、ストランド街にある個人経営の小さなホテルに滞在し、しばらくのあいだなにをするでもなく無味乾燥なわびしい日々を送りながら、分不相応に金を浪費していた。手もとが心細くなってからようやく、このままではまずい、残された道は都会暮らしをやめて田舎へ引っこむか、生活を徹底的に切り詰めるかのどちらかだと気づいた。結局、選んだのは後者だった。まずは宿泊しているホテルを引きはらって、もっと質素で安いところへ移ることにした。

 まさにそう決心した日、〈クライテリオン・バー〉で飲んでいると、後ろから誰かにぽんと肩をたたかれた。振り向いたとたん、スタンフォードの姿が目に飛びこんできた。大学時代にセント・バーソロミュー病院での実習で私の手術助手を務めてくれていた青年だ。荒涼たる大平原のようなロンドンで懐かしい顔に会えるのは、孤独な人間にすれば望外の幸せである。スタンフォードとは親友と呼べるほど近しい間柄ではなかったが、興奮もあらわに親しみをこめて挨あい拶さつした。彼のほうも嬉うれしそうだった。私は喜びではちきれんばかりになって、高級レストランの〈ホルボーン〉で昼食でもどうかと誘い、さっそく二人して辻つじ馬車に乗りこんだ。


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