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第一章 推理学(3)
日期:2023-11-07 16:02  点击:242
「ほとんどデータがない」と彼はいった。「この時計は、最近掃除したために、一番手がかりになる事実が消えてしまっている」「そのとおり」と私は答えた。「手許へとどく前にきれいになっていたのさ」 失敗をとり繕つくろうために、
    屁理屈へりくつを並べたてる友人を、私は心の底で非難した。時計が掃除してさえなければ、手がかりがつかめるとでもいうのか。
「満足のいくものではないが、調べて無駄ではなかった」と彼は、活気のない夢見るような眼を天井に向けながらいった。「間違っていたらきみに直してもらうことにして、その時計はきみの兄さんのもので、兄さんはそれをきみのお父さんから譲り受けたのだ」「それは、裏のH?Wという文字から推測したわけだね?」「そのとおり。時計が製造されたのは、およそ五十年前だ。頭文字も時計と同じくらい古い。だから時計は、ぼくらの親の世代のものだ。普通、宝石類は長男が相続するから、長男は父親と同じ名前であることが多い。確かきみの父上は大分前に亡くなられたはずだな。だから、時計はきみの兄さんの所有だった」「そこまでは、よろしい」と私はいった。「何か他には?」「きみの兄さんはだらしのない人……ひどくだらしなくて、むとんじゃくな人だった。前途有望の身でありながら、あたら好機をのがしてしまい、時折り景気がよくなることもあったが、貧乏暮らしを続けた末に、酒びたりになって亡くなった。ぼくに推理できるのはこんなところだよ」 私は椅子からとび上がり、にがにがしい気持で、足を引きずりながら、せわしなく部屋を歩きまわった。
    「きみらしくないよ、ホームズ」と私はいった。「きみがこんな愚劣なことをするとはね。ぼくの不幸な兄の経歴を調べておいて、今になってそれを何か奇抜なやり方で推理したように見せようとする。すべてを古時計から読みとったなどと思わせようったってだめだよ! 思いやりに欠けたやり方だし、正直いって幾分  いかさまヽヽヽヽくさいね」「ねえ、先生」と彼はやさしくいった。「ぼくのいい分も聞いてもらいたい。この問題を抽象的な問題として扱ったものだから、これがきみ個人にとって、どれほど身近なつらい事柄であるかを忘れてしまったんだ。でも誓っていうが、きみから時計を渡されるまでは、きみに兄さんがいたなんて、ぜんぜん知らなかったんだ」「それなら、一体全体どうしてそうした事実がわかったのかね? 一部始終まったく正しいんだが」「ああ、運がよかったのさ。あり得べきことをはかりにかけていってみただけだよ。まさか、こう当たるとは思わなかった」「でも、ただの当てずっぽうではないだろう?」「とんでもない。ぼくは決して推量なんかやらない。恐るべき習慣だよ、これは。論理能力を破壊するからね。きみに不思議に思われる理由は、ただきみがぼくの思考のプロセスをたどろうとしなかったり、大きな推論のよりどころとなっている小さな事実を見落したりしているからだ。たとえば、ぼくははじめにきみの兄さんはだらしのない人だといったね。その時計の側を見ると、下の方が二個所へこんでいるばかりでなく、一面にかすり傷がついているよ。硬貨とか鍵など、固い物といっしょくたにポケットに入れておく癖があったからだ。五十ギニーもする時計を、こんなに粗末に扱う人は、だらしのない人だろうと推定したって、実際たいした手柄になるまい。また、こうした高価なものを親から受け継いだ人は、他にも多くのものを譲り受けていると推理したって、大したこじつけにもなるまいよ」 きみの推理はもっともだといわんばかりに、私はうなずいた。
「わが国では、質屋が時計を質に取るときに、ピンの先でふたの内側に質札の番号を書いておくのが普通だ。番号が紛失したり、他の番号と入れ替ったりしないから、札ふだよりも便利なわけだ。レンズで見ると、ふたの内側に、そうした番号が四つもあるよ。そこで、きみの兄さんはしばしば困窮していただろうという推理が成り立つ。次に、兄さんは時折り金まわりがよくなったということだが、そうでなければ、質草を出せなかったはずだ。最後に、鍵穴のある中ぶたを見てほしい。穴の周りに無数のかき傷が見えるだろう。鍵がすべってできた跡だ。しらふの人が鍵でこんな傷をつけるわけがない。だが、酔っ払いの時計にはきまってついているよ。夜、おぼつかない手で時計を  捲まくときに傷をつけるのだ。何も謎めいたことはひとつもないだろう?」「実に明快この上なしだ」と私は答えた。「失敬なことをいって済まなかった。きみの驚嘆すべき能力を、疑ったりすべきではなかったんだ。それで、きみは目下、何か依頼を受けて行なっている調査でもあるのかね?」「ない。だからコカインなんかやっているのさ。頭脳を働かせないと生きていけないんだ。他に生き甲斐になるようなものがあるかね? ここの窓の所へ立ってごらんよ。こんな、みじめでわびしい、いやな世の中があっただろうか? 黄色い霧が、うず巻きながら路地を流れ、くすんだ色の家々の間を漂っていく。こんなに情ないほど散文的で、味気ないものってあるかい? ねえ、先生、才能を持ってたって、それを発揮する場所がなくては宝の持ちぐされだよ。犯罪も月並、人生も月並、そして月並でない才能は、この世では用なしというわけさ」 私がこの長広舌に答えようとしたとき、こつこつドアを叩く音がして、宿のおかみが真鍮しんちゅうの盆に名刺をのせて入ってきた。
「若いご婦人がお見えです」と、彼女はわが友に向かっていった。
「メアリー?モースタン」と、彼は読んだ。「うーん、記憶にない名前だ。こちらへ通してください、ハドスンさん。先生、行かないでくれよ。きみにはいてほしいんだ」

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