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第二章 事件の端緒(3)
日期:2023-11-07 16:05  点击:247
    勘かんをしておられる。では、ちょっと拝見」 彼は紙きれをテーブルの上に広げると、次から次へと鋭い視線を投げかけた。「みんな筆跡をわざと変えている、手紙は別だが」と彼は直ちにいった。「だが、筆者については疑いの余地はない。ご覧なさい、ギリシャ文字風の e はごまかしきれないし、 最後にくる s の字がひねってある。 間違いなく同じ人が書いたものです。モースタンさん、ぼくはいたずらに希望を持たせることは好まないが、この筆跡はお父さんの筆跡に似たところがないでしょうか?」「全然、似ておりません」「そうおっしゃるだろうと思った。それでは、六時にお待ちしてます。紙きれは置いていってください。前もって調べておきたいことがありますから。いま、三時半をまわったばかりです。
    ではまたオー?ルヴォワール」
    それではまたオー?ルヴォワール」と訪問客はいった。そして、輝く優しいまなざしを私たち二人に投げかけると、真珠の入った小箱を胸にしまい、急ぎ足で立ち去った。
 私は窓辺に立って、彼女が足早に通りを歩いていくのを見守った。やがて、灰色のターバンと白い羽根は、小さな点となって、くすんだ人ごみの中に消えた。
「なんてきれいなひとなのだろう!」私は友達の方を振り返って叫んだ。彼は再びパイプに火をつけ、たれ下がったまぶたで椅子にもたれていた。
「そうかね?」と彼はものうげな調子でいった。「気がつかなかった」「きみは本当に機械だよ……計算機だ」と私は叫んだ。「時々きみには何かひどく非人間的なところがあるね」 彼は優しくほほえんだ。「何よりも重要なことはだね」と彼は大声でいった。「相手の個人的な特徴によって、判断力をにぶらされないようにすることだよ。ぼくにとって依頼人は問題の中の一単位、一要素にすぎないのだ。明晰な推論に情緒を持ち込むのは危険だ。本当の話、ぼくの知っている一番の美人は、保険金ほしさに三人の子供を毒殺して、死刑になった女だし、また、ぼくが知っている中で最も不愉快な男は、慈善家で、これまでロンドンの貧民のために二十五万ポンド近くの金を投げ出した奴なんだ」「しかし、この場合は……」「ぼくは例外はもうけない。例外は規則の反証にしかならないからね。きみはこれまで筆跡を見て性格を判断したことがあるかね? この男の字体についてどう思う?」「読みやすい、几帳面な字だ」と私は答えた。「事務能力にすぐれ、幾分個性の強い人」 ホームズは首を振った。「長い文字を見てごらん。他の文字の列からはみ出すことがほとんどない。このdはa のようだし、この l はe のようだ。しっかりした人間なら、どんなに読みづらい字を書いても、必ず長い文字ははっきり書くものだ。この男のkの文字はすわりが悪いし、大文字の書き方には尊大なところがある。今からちょっと出かけてくるよ。二、三調べることがある。この本を読んでいたまえ……最もすばらしい本のひとつだ。ウィンウッド?リードの『人類の殉難』という本だがね。一時間で戻るよ」 私は本を手にして窓際に坐ったが、思いは著者の大胆な思索からかけ離れたところをさ迷っていた。私はさきほどの訪問客……彼女の微笑、声の深い豊かな調子、そして彼女の一生にのしかかる不思議な神秘に心をうばわれていたのである。父が失踪しっそうしたとき、彼女は十七歳だったとすると、現在は二十七歳……若さがうぬぼれを捨て、経験によって多少落着きを得るという、羨むべき年齢に達しているはずだ。
 こんなことをぼんやり思っているうちに、何かよからぬ考えが頭に入りこんできたので、私はあわてて自分の机のところへ行き、最近出た病理学の論文を猛烈な勢いで読み始めた。片足が不自由であるうえに財産もない、一介の軍医たるこの自分が、こんなことを考えるとは何たることか。彼女だって問題の中の一単位、一要素にすぎないのだ。自分の未来が暗闇だというのなら、ただの想像力の鬼火でそれを明るくしようなどと考えるよりは、男らしくそれに直面した方が確かにましなはずだ。
 

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