「インド産の紙だ」と彼はいった。「いっときピンで板にとめてあった。図面が書いてあるが、たくさんの広間や、廊下や、通路のある、大きな建物の一部の見取図のようだ。一個所、赤インクで小さな十字がしるされ、その上にかすれたえんぴつ書きで『左から三?三七』とある。左手の隅に、四つの十字をくっつき合うように一列に並べた、奇妙な絵文字がある、そのわきに乱雑な書体で、『四つの署名……ジョナサン?スモール、マホメット?シング、アブドゥラ?カーン、ドスト?アクバー』と書いてある。いや、これが事件と関係があるかどうかはわかりませんがね。しかし、重要な書類であることは間違いないでしょう。裏も表も汚れてないところを見ると、紙入れに大切にしまってあったらしい」「父の紙入れの中にありました」「それなら、大事にしまっておくといいでしょう、モースタンさん。何かの役に立つかもしれない。この事件は最初に思ったよりもっと奥深くて入り組んだものになるのではないか、そんな気がし始めてきましたよ。これまでの推理を検討し直さなければなりません」 彼は馬車の中でそりかえったが、まゆを寄せ、うつろなまなざしをしているところからすると、一心に考えごとをしているらしかった。モースタン嬢と私は、小声で、今夜の冒険とその予測される結果について話しあったが、わが友は目的地に着くまで片意地な沈黙を守り続けた。
九月の夕刻で、まだ七時前だった。その日はうっとうしい一日で、濃いじとじとした霧きりが、大都会の上に低くたちこめていた。泥のような色をした雲は、ぬかった街路の上に重苦しくのしかかっており、ストランド街の街灯は、おぼろげな光の斑点となって浮かび、泥だらけの舗道にかすかな円形の光を投げかけていた。店の窓からもれる黄色い明かりは、水蒸気を含んだ大気の中に流れ、雑踏する人の往来をかすかな不安定な光で照らした。こうしたわずかな光の筋の中を行き交う果てしない顔の列……悲しそうな顔、嬉しそうな顔、やつれた顔、陽気な顔……そこには、何かうす気味悪いものが感じられた。人生の縮図ででもあるかのように、それらは暗闇から光の中へ出たかと思うと、再び闇へ消えていった。私は雰囲気に負けるたちではないのだが、陰欝な重苦しい夜と、のっぴきならない奇妙な仕事のために、気は滅入り、神経は過敏になっていた。モースタン嬢を見ると、彼女も同じような状態であるらしかった。ホームズだけは些細なことに心を動かされなかった。彼は膝の上に手帳を開き、ときどき懐中電灯の光で、数字や覚え書きを書き入れていた。
ライシアム劇場では、すでに群衆がわきの出入口に殺到していた。正面には、二輪馬車や四輪馬車がひっきりなしに横づけになり、盛装の男たちや、ショールをまいたりダイヤをつけたりした女たちを降ろしていた。指定された三本目の柱へ行くと、馭者ぎょしゃの服装をした、小柄な浅黒い、きびきびした態度の男が近づいてきた。
「モースタンさんのお連れさんですか?」と彼はたずねた。
「わたしがモースタンで、こちらの二人は、お友達ですの」と彼女はいった。
彼は何とも鋭い、せんさくするような眼つきで、私たちを見つめた。
「お嬢さん、失礼ですが」と男は幾分がんこな態度でいった。「お友達が警官でないと保証していただかないと」「その点は大丈夫ですわ」と彼女は答えた。男がかん高く口笛を吹くと、一人の浮浪児が四輪馬車を引いてきて、ドアをあけた。私たちに話しかけてきた男は、馭者台にのぼり、私たちは中に坐った。ただちに馭者が馬にひと鞭むちくれると、馬車は全速力で霧の降る街路を走り出した。