「あれがジェイコブスン造船所だ」と、サリー州側に見える、突き出たたくさんの帆柱と索具のほうを指さして、ホームズはいった。「はしけの間に隠れながら静かに航行してください」
彼はポケットから夜間用の望遠鏡をとり出して、しばらく岸辺を眺めた。「ぼくが出した見張りが見えるぞ」と彼はいった。「だが、ハンカチの合図はないようだ」
「少し下流へ行って待ち伏せたらどうです?」と、ジョーンズは真剣な口調でいった。その頃までにわれわれの誰もが真剣になっていた。事情をよく知らされていない警官や火夫でさえ例外でなかった。
「どんなことでも当然のように決めてかかるのはよくない」と、ホームズは答えた。「確かに、連中が下流へ向かう確率は十対一かもしれないが、保証のかぎりじゃない。ここからなら、造船所の入口が見えて、向こうから見られる心配はまずない。今夜は晴れて明るい晩になりそうだ。ここにいたほうがいいでしょう。ほら、向こうのガス灯のあかりの下を人の群れが行くよ」
「造船所の仕事が終って帰るところだ」
「うす汚ない連中だが、あの中の誰にでも、小さな不滅の火が宿っているのだよ。彼らを見ただけでは、そうは思えないだろうがね、先験的に蓋然がいぜん性の問題として論じることはできないからだ。人間とは、本当に不思議な謎だよ!」
「誰だったか、人間のことを動物の中に宿る霊魂だといってたな」と私がいった。
「ウィンウッド・リードはこの点について面白いことを書いている」とホームズはいった。「彼のいうところによると、個人としての人間は不可解な謎だが、集団になると数学的な確実性というものを帯びてくる。たとえばある一人の人間の行動を予測することはできないが、これが平均的な数の人間だと、正確に予想できる。個人は変動するか、 割合パーセンテージは変化しない。統計学者はそういってるがね。おや、あれはハンカチかな?確かにあそこで、白いものがはためいてるね」
「そうだ。きみの見張りだよ」と私は大声でいった。「ぼくにもはっきり見える」
「そしてあそこにオーロラ号が」とホームズが叫んだ。「しかも猛烈な速さで行くぞ! 機関士、全速力で前進だ。あの黄色い灯をつけた汽艇ランチを追え。何が何でもあれには負けられないぞ!」
船は、こっそり船置場の入口を抜け、二、三の小型船の間を走っていたので、気がついた時にはすでにかなり速度を上げていた。そして今や、岸寄りの方を、下流に向かって、飛ぶような速さで航行していた。ジョーンズは、大真面目な顔で船を見ると、首を振った。
「ずい分速いな。追いつけるかなあ」
「何とかして追いつくんだ!」とホームズは歯ぎしりしながらいった。「かまたき、どんどん石炭をくべろ! 全速力を出すんだ! たとえ船が燃えても奴らを補つかまえるんだ!」
われわれはかなり敵の船に迫っていた。
汽罐きかんの火室はごうごうと唸うなり、強力なエンジンは巨大な金属の心臓のように鳴り響いた。鋭くとがった船首は、静かな水面をかき分けて、左右両舷にうねる波頭を立てた。 エンジンが鼓動する度ごとに船全体が一つの生物になったように跳びはねたり、震動したりした。船首にある大きな黄色い灯が、ゆらめくじょうご型の光を前方に投げかけた。すぐ前の水面に見える黒い固まりでオーロラ号の位置が分かったが、船尾に渦巻く白い泡を見ただけで、その速さが知れるのだった。われわれは伝馬船てんませんや蒸気船や商船の間を縫って、後ろや横をすり抜けたりしながら進んだ。暗闇の中から、こちらに大声をかけるものもあったが、なおもオーロラ号は走り続け、こちらもその後をぴたりとつけていた。