このあいだ、お祖母さまが、声をひそめて(ちかごろではおうちの人と話をするとき
は、いつでも声をひそめるのです。こんな癖がついてしまったのです)こんなことをおっ
しゃいました。
「ねえ、鶴代、大助と梨枝のことだがねえ」
「ええ……」
わたしも、あたりを憚はばかるような声で返事をすると、お祖母さまの口許を視詰めま
した。お気の毒にお祖母さまも、ちかごろ俄かに年寄られました。お祖母さまはちょっと
ためらっているふうでしたが、やがて思いきったように、
「あの二人は、ちっとも夫婦らしくないじゃないの。寝床なんかも別々にしてさあ。あの
年頃で子供もないのに、別々の寝床に寝るなんて、お祖母さまは腑に落ちないよ」
わたしは顔が赤くなりました。そしてずいぶんひどいお祖母さまだと思いました。だっ
て、わたしのような子供をつかまえて、そんな露骨な話をなさるんですもの。でも考えて
みると、これはいちばん深刻な問題かも知れません。そして、事が深刻なだけに、ほかの
人には打ち明けかねて、わたしのような子供でも相手にして胸の屈託を打ち明けたくなら
れたのでしょう。そう思ったものだから、わたしは素直にお祖母さまのいうことを、きい
てあげることに致しました。
「お祖母さま、夫婦が別々の寝床に寝ちゃいけないの。だってお兄さま、帰っていらした
ときとてもつかれていらしたでしょう。だから一人でおやすみになったのが、そのまま習
慣になったのじゃないかしら」
「ええ、それゃ……別々の寝床に寝たってかまやアしないよ。わたしにはねえ……」
と、お祖母さまは口ごもって、
「大助がかえって来てから、ふたりはまだ夫婦になっていないのじゃないかと思われるの
だよ」
「あら」
わたしはまた赤くなりました。
「ひどいお祖母さま。だって、そんなこと、どうしてわかるの」
「それはわかりますよ。お祖母さまぐらいの年頃になればいろんなことがわかります。だ
けど、どっちが悪いのだろう。大助が梨枝を嫌うはずはないし、それに長いあいだ女っ気
なしの不自由なくらしをして来たのだろうからね」
「お嫂さまだって、お兄さまを嫌うわけはないでしょう?」
「そう、だからおかしいのだよ。とにかく大助はすっかり人間が変わったようだね」
お祖母さまはそういって、溜め息をお吐つきになりましたが、最後の一句を聞いたと
き、わたしは何か恐ろしい戦慄が、背筋をつらぬいて走るのを、どうすることも、出来ま
せんでした。
〇
(昭和二十一年八月十五日)
お兄さん、このまえの手紙によって、わたしが何を考えているか、おわかりになったこ
とと思います。それについてのお兄さんの非難の、お手紙もたしかに拝見いたしました。
むろん、わたしの考えはバカげたことだと思います、そんな恐ろしいことがある筈はな
く、また、あってはならぬと思います。
しかし、兄さん。ああいう懼れを抱いているのは、わたし一人ではないのです。お嫂さ
まがやっぱり、同じような恐怖をいだいていらっしゃるのです。お嫂さまはそのことを、
極力かくしていらっしゃいますけれど。
昨日のことでした。わたしはふとお嫂さまがぼんやりと座敷に立っているのを見受けま
した。まえにもいったように、お嫂さまはこのひと月ほどのあいだに、まるで瘦せておし
まいになって、そうして薄暗い座敷のなかにぼんやり立っているところを見ると、幽霊か
なんぞのように見えるのでした。