「お嫂さま、何をしていらっしゃるの」
わたしはそうっとうしろによると、あたりを憚るような声でそういいましたが、それで
も、お嫂さまにとっては、爆弾でも破裂したような物音にきこえたらしく、とびあがるよ
うな恰好でふりむきました。そして、わたしだとわかると、弱々しい微笑をうかべなが
ら、
「まあ、いやな人、だしぬけにびっくりさせるんですもの」
「あら、ごめんなさい。あたし、そんなつもりじゃなかったけど。お嫂さま、こんなとこ
ろで何をしていらしたの?」
「あたし?」
お嫂さまは長い首をかしげて、じっとわたしを見ていらしたが、たゆとうような微笑を
頰にきざむと、
「あたしねえ、この屛風を見ていたのよ。ほら、この葛の葉を……」
わたしはぎょっとして、お嫂さまのうしろに眼をやりました。いつかお祖母さまが蔵の
なかから取り出させた葛の葉屛風は、いまでも座敷においてあります。ほのぐらい座敷の
なかで、屛風の葛の葉がまるでお嫂さまと影を重ねたように、あわれにはかなく見えまし
た。
「まあ。この葛の葉を……お嫂さま、この葛の葉がどうかしたんですの」
わたしは、さぐるようにお嫂さまと葛の葉を見くらべました。
「鶴代ちゃん、この葛の葉、悪い辻つじ占うらだったと思わない? ねえ、この葛の葉に
は、瞳がないわね。そしてうちのお兄さんにも……」
お嫂さまの声はかすかにふるえておりました。そしてひとりごとをいうように、
「お兄さんは、どうして瞳をなくされたのでしょう。あのガラスの眼が入るまえには、ど
んな瞳があったのでしょう。もしや……」
「お嫂さま!」
わたしは思わず呼吸をはずませました。しかし、呼吸を弾ませたとはいうものの、声を
押しころすのを忘れはしませんでした。
「それでは、お嫂さまもやっぱり……お嫂さま、何か思いあたる筋があるんですの。お兄
さんの様子に、何かおかしなところがあるんですか」
お嫂さまはぎょっとしたように、わたしの顔を見直しました。お嫂さまの眼はずいぶん
大きく見えました。わたしはお嫂さまの眼のなかへ吸いこまれるのじゃないかと思ったく
らいです。お嫂さまはわたしの手をとって、
「鶴代ちゃん、あなたがなんのことをいっているのか、あたしにはわかりません。でも滅
多なことをいうのは慎しみましょうね。自分が苦しいからって、ひとのことをとやかくい
うのはよくないわ。でもねえ」
お嫂さまはまたほうっと、世にも切なげな溜め息をつくと、
「この屛風がいけないのよ。この屛風が、よけいな空想をあおってあたしを苦しめるの
よ。この葛の葉は狐なのね。ほんとうの葛の葉姫じゃないのね。でも、信田の森の狐が葛
の葉姫に化けて安倍の保名と契ったのは、悪意からではなかったし、それに保名は男だか
ら妻と思ってほかの女と契っても、それほど面目にはかかわらないわね。でも……女はど
うなるの、良人だと思った人が良人ではなく、あかの他人だったらどうなるの。そんなこ
とがあったら、女はとても生きていられないわ」
兄さん、おわかりになって? これでわたしと同じような懼れをいだいているひとが、
ほかにもあるということを……しかも、これは大助兄さんをいちばんよく知っている筈の
お嫂さまなのです。いえ、いえ、お嫂さまやわたしばかりではなく、お祖母さまも、やっ
ぱり同じ疑いをいだいていらっしゃるのではないでしょうか。いまにして思えば、大助兄
さんが還って来た日、表に立っていたおりんさんの、焦げつくような視線も合点がいくよ
うに思われます。また大助兄さんが伍一さんの最期の模様をきかせてあげたとき、かえり
に洩らしたおりんさんの、あの気味の悪い薄笑い。……ああおりんさんはわたしたちより
前に、あの人、ガラスの眼を持ったあの人の正体を看破っていたのではありますまいか。
即ち、おりんさんはあの人が、大助兄さんではなく、自分の弟の伍一さんであることを
知っていたのではありますまいか。