渡り廊下をわたって、蔵のお部屋から母屋のほうへ来ると、御不浄のそばの雨戸が一枚
あいています。わたしは心臓をドキドキさせながら、しっかりお祖母さまの手をにぎりま
した。お祖母さまはえらい人です。ふつうの人ならこんなとき、すぐにも騒ぎ立てるので
しょうが、お祖母さまははんたいに、足音をしのばせて、お座敷の障子のそとへちかづい
ていき、障子にはめたガラス越しにそっと中をお覗のぞきになりました。わたしもお祖母
さまの真似をして、座敷のなかを覗いてみました。
むろん、座敷のなかは電気が消してあります。しかし雨戸と障子がいちまいずつ開いて
いるので、外の光がさしこんで、おぼろげながらも物の形が見えます。このお座敷に葛の
葉屛風が立ててあることは、兄さん、あなたも御存じでしょう。その葛の葉屛風のまえ
に、誰か人が立っているのです。むろん、誰だかわかりません。しかしぼんやり浮き上
がったうしろ姿からして、まだ若い、男の人のように思われました。不思議なことに、そ
の人はよねんもなく屛風のおもてを視詰めているのです。まるで屛風の葛の葉に、魅入ら
れたように、茫ぼう然ぜんとして立ちつくしているのです。
「誰? そこにいるのは?」
突然、お祖母さまが声をおかけになりました。低いが鋭い、力のこもった声でした。屛
風のまえに立っていた男はそれをきくと弾かれたように振り返り、それから、開いていた
障子のすきから縁側へとび出し、雨戸から外へ逃げていきましたが、あまりあわてたの
で、お座敷の餉ちやぶ台だいに向こう脛ずねをぶっつけたと見えて、ものすごい音を立て
たうえに、いかにも痛そうに跛びつこをひいているのがおかしな恰かつ好こうでございま
した。
この物音でつぎの間に寝ていた大助兄さんやお嫂さまも眼がさめたと見えて、パチッと
いう音とともに、欄間の隙すき間まから光がさしましたが、やがてお嫂さまが、あいの襖
をひらいて出ていらっしゃいました。
「まあ、お祖母さまですの。いまの物音はなんでございました」
「泥棒ですよ」
「泥棒?」
「ええ、そこの雨戸をこじあけて入って来たのです。よい按配に鶴代が眼をさましてくれ
たので、何もとられずにすんだようだが、……鶴代、電気をつけてごらん」
電気をつけると、縁側から土足の足あし痕あとが屛風のまえまでつづいておりました
が、別になくなっているものはないようでした。
「まあ、気味の悪い。あたし、ちっとも気がつきませんで……」
「気をつけなければいけませんよ。あなたがたの寝息をうかがっていたようです」
「あら、いやだ」
「でも、もう大丈夫、ああして逃げ出したのだから、戻って来るようなことはありますま
い。戸締まりを厳重にして早くおやすみなさい」
不思議なことには、こういう騒ぎのあったあいだ、大助兄さんは起きて来ようともしま
せんでした。それでいて眠っているのではありません。襖のすきからつぎの間をのぞいて
みると、さやさやと揺れている白い蚊か帳やのなかに、大助兄さん起きなおって、じっと
こちらの話に聞き耳を立てているのです。あの気味の悪いガラス眼を、蚊帳ごしにまじま
じとこちらへ向けたまま。……寝床がふたつ並べて敷いてありました。
これが昨夜起こった第一の出来事ですが、第二の出来事というのは、それから半時間も
たたぬうちに起こりました。
泥棒騒ぎがおさまったので、わたしたちは土蔵のお部屋へかえりましたが、昂奮したせ
いかすっかり眼が冴えて、どうしても眠れそうにありません。輾てん転てん反側している
うちに、わたしは、またもや異様な物音を耳にしました。今度もまた母屋のほうで、それ
は押し殺した苦痛のうめき声のようでした。わたしはハッと寝床のうえに起きなおりまし
たが、その気配にお祖母さまが隣の部屋から声をおかけになりました。