わたしはもう一度、事件当時の新聞を繰りかえし、繰りかえし読みました。そしてひと
つの結論を得たのです。あの当時警察では、あなたに対して鋭い疑惑の眼をむけていたの
です。それでいながら、結局あなたを見のがしたのは、あなたに完全なアリバイがあった
からです。あなたは絶対にあの晩、六里はなれたK村へやって来ることは出来なかった。
したがってあなたは今度の殺人事件に無関係である。……そういうふうに見られたので
す。
わたしはこれを考えてみました。あなたをこの殺人事件に結びつけることは、絶対に不
可能だろうか。H療養所とK村と六里はなれていて、殺人を行なうことは絶対に出来ない
だろうか。それは絶対に出来ないということはない。第一に犯人のほうからやって来る場
合、第二に被害者のほうから出かけていった場合。この二つがあります。第一の場合はあ
なたのアリバイが完全だから絶対に不合理です。しかし第二の場合は……?
警察がこの場合をかんがえてみなかったのは、なんという大きな手落ちでしょう。それ
は被害者が盲目であって、介添えなしには一歩も外へ出られないという事実が先入観と
なったのでしょうが、そのことを逆にかんがえれば、介添えさえあれば外へ出られなくは
ないということにもなります。そして、誰かの……たとえば鹿蔵の自転車に乗っけて貰え
ば、K村からH療養所へ駆け着けることは決して不可能ではない。そして更に、H療養所
付近であなたに会って、殺されて、死骸となって鹿蔵に運ばれ、K村の車井戸に投げこま
れるということは、これまた不可能ではないのです。
兄さん、わたしが、このような恐ろしい結論に到達したのにはわけがあるのです。
そのわけは三つありました。
第一は、お嫂さまの死骸を発見して、驚いて鹿蔵を起こしにいったとき、鹿蔵の服がズ
ブ濡れになって壁にかかっていたこと、そして自転車が泥まみれになっていたこと。この
ことは警察でも眼をつけたのですが、すぐそのあとで、つまり警官の駆けつけるまえに鹿
蔵はまた、その自転車でH療養所まであなたを迎えにいったので、そのとき濡れたのであ
ろうということになりました。わたしはわざと黙っていました。
第二は、お嫂さまの殺されたのは、一日の夜の十二時だったということ。ところが、わ
たしは二日の朝の五時ごろに車井戸のはげしく軋きしる音をきいたのです。大助兄さんは
あのとき井戸へ投げこまれたのにちがいない。しかし、それでは犯人はなんだって十二時
から夜明けまで待たなければならなかったかという疑問。
第三は、お嫂さまの死骸は座敷へ捨てておきながら、なぜ兄さんの死骸だけ車井戸に投
げこまなければならなかったかということ。井戸へ投げこむには投げ込むだけの理由がな
ければなりません。つまりそれは、お兄さんがH療養所までの往復でズブ濡れになり、泥
まみれになっていたから、座敷へおいとくわけにはいかなかったからではないでしょう
か。
兄さん、わたしはいまあの夜の情景が、まざまざと眼に見えるような気がいたします。
大助兄さんはおりんさんから、お嫂さまとあなたのなかに、道ならぬ関係があるよう吹き
こまれたのだ。そして嫉しつ妬とに狂った大助兄さんは、あの夜、お嫂さまをズタズタに
斬り殺し、鹿蔵を脅迫してH療養所まで案内させ、そこであなたを殺そうとしたが、逆に
あなたに殺されて、ふたたび鹿蔵の自転車に乗せられて明け方ごろ死骸となってここへか
えって来ると、井戸のなかへ投げこまれたのだ。……
ここまで書いて、蔵の窓から空を仰ぐと、青く晴れた空には、羊の毛をちぎったような
雲が浮いています。その雲を見ていると、わたしはなんだか体が宙に浮いて、フワフワと
このまま昇天してしまいそうな気分です。体中がガラスのように透明になって、一切の苦
しみも悲しみも昇華したような気持ちです。