さて、かれが三日逗とう留りゆうしているあいだに、私たちは探偵小説についてもいろ
いろ語りあったが、その時のことなのである。私が「顔のない屍体」のことを切り出した
のは。──私はつぎのようなことを、かれにいったのを憶えている。
いまからざっと二十年ばかりまえに、自分はある雑誌で、探偵小説のトリックの分類と
いうようなことを試みたことがある。いまその雑誌が手もとにないので、はっきりしたこ
とはいえないが、「一人二役」型だの、「密室の殺人」型だの、「顔のない屍体」型だの
と、探偵小説でもっともしばしば扱われるトリックについて、述べたものであったように
思う。それから二十年、探偵小説も大いに進歩したが、いまだに、いまあげた三つのト
リック──トリックというより、テーマといったほうが正しいのかも知れないが──が、探
偵小説の王座をしめているのは興味のあることだ。
しかし、この三つの型を仔し細さいに調べてみると、そこに大きな相違があることに気
がつく。と、いうのは、「密室の殺人」や「顔のない屍体」は、それが読者にあたえられ
る課題であって、読者は開巻いくばくもなくして、ははア、これは「密室の殺人」だなと
か、「顔のない屍体」だなとか気がつく。しかし、「一人二役」の場合はそうではない。
これは最後まで伏せておくべきトリックであって、この小説は一人二役型らしいなどと、
読者に感付かれたが最後、その勝負は作者の負けである。(もっとも、あらゆる探偵小説
は、犯人が善人みたいな顔をして出て来るのだから、一種の一人二役だが、それはここに
いう「一人二役」型とは別である)
そういう意味で、「一人二役」型と「密室の殺人」型や「顔のない屍体」型はたいへん
ちがっているのだが、さてまた、「密室の殺人」型と「顔のない屍体」型とでは、これま
た大いに趣がちがっている。と、いうのは「密室の殺人」型の場合には、あたえられる課
題は「密室の殺人」と、きまっていても、その解きかたは千差万別である。いや、「密室
の殺人」という同じテーマに、いかにちがった解決をあたえるかというところに、作者も
読者も興味を持つのである。
ところが「顔のない屍体」型の場合はそうではない。もし、探偵小説で顔のない屍体、
即ち、顔がめちゃめちゃに斬りきざまれているとか、首がちょんぎられてなくなっている
とか、焼け跡から発見された屍体の、相好のみわけもつかなくなっているとか、さてはま
た、屍体そのものが行く方不明になっているとか、そんな事件にぶつかったら、ははあ、
これは被害者と加害者とがいれかわっているのだなと、すぐそう考えても、十中八九まず
間違いはない。即ち、「顔のない屍体」の場合では、いつも、被害者であると信じられて
いたAは、その実被害者ではなくて犯人であり、犯人と思われているB──そのBは当然、
行く方をくらましているということになっている──これが、屍体の御当人、即ち被害者で
ある。と、いうのが、少数の例外はあるとしても、いままでこのテーマを取り扱った探偵
小説の、たいていの場合の解決法である。──と、そんな事を得意になってしゃべったの
ち、
「ねえ、これ、妙じゃありませんか」
と、私はいった。
「探偵小説の面白さの、重要な条件のひとつとして、結末の意外さということが強調され
ているんですよ。ところが、『顔のない屍体』の場合に限って、誰の小説でも犯人と被害
者のいれかわりなんです。つまり『顔のない屍体』の場合にかぎって、事件の第一歩か
ら、読者は犯人を知っているんですよ。これは作者にとってたいへん不利なことですよ。
ところが、その不利を意識しながらも、たいていの作家が、きっと一度はこのテーマと
取っ組んでみたいという誘惑をかんじるらしいんです。つまり、このテーマにはそれだけ
魅力があるんですね」
「すると、何ですか」
と、金田一耕助は面白そうに訊ねた。