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黒猫亭事件--一(2)_本陣殺人事件(本阵杀人事件)_横沟正史_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3335

 その晩、長谷川巡査は北の裏通り、俗に裏坂とよばれている坂を、だらだらと下ってい

た。この裏坂は不規則にうねうねうねっているうえに、界かい隈わいでもとくに武蔵野の

名残りが、強くのこっているところで、あちらに寺があったり、こちらに墓地があった

り、更にそこから北へかけては、かなりひろい範囲にわたって焼けているので、まことに

淋さびしいところであった。長谷川巡査はそういう暗い、淋しい裏坂を、コツコツとく

だって来たが、途中でおやと足をとめて、坂の下をのぞきこんだ。そこから坂は急にけわ

しくなって、約十間ばかり、突き落としたように道が落下しているが、それがふたたびゆ

るやかになるところに、南北の道が交こう叉さしていて、その道を左へいけば、G町銀座

の表通りへ出られるのである。長谷川巡査がのぞきこんだのは、その四つ角の左側にある

家の裏庭であった。そこにちらちらと灯がまたたいているのみならず、耳をすますと、ざ

くっ、ざくっ、と土を掘るような音がきこえて来るので、長谷川巡査が、はっと胸をとど

ろかしたのも無理ではなかった。

 このへんの地理に明るい長谷川巡査は、そこがどういう家かよく知っていた。「黒猫」

といって、夜になると、菫色の灯のつく酒場のひとつなのだが、長谷川巡査はその「黒

猫」について、つぎのようなことを思い出した。最近までその店を経営していた人は、一

週間ほどまえに店を他人に譲りわたして、どこかへ引っ越してしまった。そして、あとを

引き受けた新しい主人は、目下家を改装中だが、まだこちらへ引き移って来ていないの

で、夜になるとその家は、空き家同然になってしまうのである。

 そのことを思い出した長谷川巡査は、心にふかく怪しみながら、足音をしのばせて坂を

下ると、坂の途中にある「黒猫」の裏木戸へしのびよった。そして身をかがめて(と、い

うのは、その木戸は坂道より一段ひくいところにあったので)木戸のすきまからなかをの

ぞきこんだが、胸騒ぎはいよいよはげしくなった。

 その庭はあまりひろくなく、十坪あるかなしであろう。「黒猫」のうしろには、蓮れん

華げ院いんといって、そのへんでも古い日蓮宗のお寺があるのだが、この寺は敷地は「黒

猫」よりも一段高くなっている。だから「黒猫」の庭は、うしろを蓮華院のたかい崖がけ

でさえぎられ、しかも、その崖は向こうへいくほど、「黒猫」のほうへはみ出しているの

で、庭は不規則な直角三角形をしている。灯の色がちらちらするのは、その三角形のいち

ばん奥のすみであった。

 長谷川巡査は眼がなれて来るにしたがって、その灯というのが、崖の木にぶら下がって

いる提灯ちようちんであること、それから向こうむきになって、何やら一生懸命に、土を

掘っている人物のあることをみとめた。そのひとは、光を向こうからうけているので、よ

くわからなかったが、どうやら、和服の尻はしょりをしているようであった。シャベルを

土に突っこんでは、片脚をあげてぐっと踏む。そして土をかきのけるのである。何んのた

めにそんなところに、穴を掘っているのかわからないが、わきめもふらず、おりおり汗を

ふくのさえもどかしそうであった。

 ざくっ、ざくっ、と土を掘る音。えたいの知れぬ無気味さが、ほのぐらいあたりの闇や

みを這はっている。

「あっ!」

 突然、土を掘っていた男が、ひくい叫び声をあげた。それからシャベルを投げ出すと、

犬のように四つん這いになって、両手でパッパッと土を掘りはじめた。はじきとばす土の

音にまじって、はっはという、はげしい息遣いがきこえて来るところからみても、その男

自身、いかに興奮しているかがうかがわれるのであった。

 きゃっ!

 ふいに、その男が悲鳴をあげて、はじきとばされたように穴のそばからとびのいた。と

びのいたまま、まだ及び腰で、穴のなかを見つめている。その後ろすがたが、夜目にもし

るくふるえているのを見ると、長谷川巡査は急にはげしく戸を叩きはじめた。

「開けろ、開けろ」

 だが、長谷川巡査はそんなことを怒鳴るひまに、塀を乗りこえたほうが、ちかみちであ

ることに気がついた。長谷川巡査は二、三歩坂を駆けのぼると、はずみをつけて塀にとび

つき、そこからなかを見ると、例の男が背中を丸くして、こっちを見ていたが、逃げ出し

そうな気配は見えなかった。塀からとびおりて、

「どうしたんだ。何をしているのだ」

 そばへ駆け寄っていくと、相手は急におびえたようにあとじさりしながら、穴の向こう

へまわった。それではじめて提灯の灯と、長谷川巡査の携えた懐中電燈の灯が、まともに

顔を照らしたので、長谷川巡査はやっと相手が誰であるかわかった。それは崖のうえにあ

る蓮華院のわかい僧で、名前はたしか日兆というのであった。

「ああ、君か。──いったい、こんなところで何をしているのだ」

 長谷川巡査の詰問に、日兆は何かこたえようとするらしかったが、顎ががくがくけいれ

んするばかりで、言葉はろくにききとれなかった。

「ど、どう……」

 もう一度、おなじことを訊ねようとして、長谷川巡査は、足下の穴へ眼をやったが、と

たんに、

「うわっ!」

 われにもなく悲鳴をあげて、はじかれたようにうしろへとびのいた。それから自分の眼

をうたがうように、懐中電燈を下へむけて、穴のなかを見直した。穴のなかには、半分土

でおおわれた女の屍体がよこたわっていた。多分日兆が掘り出して、そこまでひきずり出

したのだろう。腰から下はまだ土のなかに埋まっていたが、それにも拘かかわらず長谷川

巡査が、とっさにそれを女と判断したのは、その屍体が裸であったこと、したがって掘り

出された上半身は、まだ土と泥とにまみれているとはいうものの、仰向けに寝かされてい

るその屍体の、乳房のほんの僅かにしろ、男とちがうふくらみだけはおおうべくもなかっ

た。長谷川巡査は懐中電燈の光の輪を、顔のほうへ這わせていったが、そのとたん、

「…………!」

 声にならぬ悲鳴をあげて、懐中電燈の柄えも砕けんばかりに握りしめた。

 ひと呼吸、ふた呼吸おいてから、反射的に日兆のほうをふりかえると、かれの握りしめ

ている濡ぬれ手て拭ぬぐいに眼をやって、それからまた改めて屍体の顔に眼を落とし、さ

らに強く懐中電燈の柄を握りしめた。庭の隅にある水溜まりで手拭いをしめして、日兆が

顔の泥だけ拭いとったにちがいない。日兆もこの屍体の主が誰であるか、一刻もはやく知

りたかったにちがいないが、果たしてかれにはこの顔が、誰であるか識別できたであろう

か。

 いいや、それはもう顔とはいえなかった。強いていえば、顔のあった廃墟とでもいうべ

きであろうか。もう完全に腐らんして、ちぢれあがった上下の唇のしたから、白い骨がの

ぞいている。もう眼も鼻もなくなっていた。かつてそこに眼があり鼻があったあたりに

は、うつろの穴がひらいていて、その周辺にいくらか残った肉片らしきものが、灰色に硬

化してちぢれていた。頭部にはまだいくらか皮膚がのこっているとみえ、わずかの髪の毛

が水に濡れて、ねっとりと廃墟のうえにこびりついていたが、それは男か女か、判断がつ

きかねるほど短かった。

 これだけでも、世にも無気味な眺めだったが、さらにそれをいっそう無気味なものにし

ているのは、その廃墟のうえをいちめんにおおうている、無数の白い小さい虫である。そ

の虫どもの小休みのない蠕ぜん動どうのために、懐中電燈の光のなかで、顔全体がかげろ

うのように、揺れ動いているかのごとく見える。……

 長谷川巡査はいまにも嘔おう吐とを催しそうになり、急いで懐中電燈の光の輪を、その

いやらしいものから日兆のほうへむけた。

「ど、どうしたんだ。この屍体はいったい誰だ。君はまた、どうしてこんなところを掘っ

ていたんだ」

 と、たたみかけるように訊ねた。それに対して日兆は、なにかいおうとして唇を動かし

たが、相変わらず顎ががくがくけいれんするばかりで、言葉はハッキリききとれなかっ

た。鉢のひらいた醜いかおが、おしへしゃげたように歪ゆがんで、青黒い額に太い血管が

二本、みみずのようにふくれあがっているのが気味悪かった。それにその時の日兆の眼

だ。血走ってギラギラ光る眼は、まるで気が狂っているようであった。長谷川巡査は、穴

から掘り出された屍体も屍体だけれど、日兆青年のそのかおに、より以上ものすごいもの

をかんじて、思わずぞうっと眼をそらした。


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