まったく、人間の感情なんて妙なものである。ふだんならば黒猫であろうが白猫であろ
うが、たかが猫一匹に驚くような人物は、ひとりもそこにはいなかった筈だが、このとき
ばかりは文字どおり、みんなぎょくんと跳びあがったのである。なるほど、わかい刑事の
いうとおりであった。蓮華院の崖のうえから、まっくろなからす猫が、しんちゅう色の眼
を光らせて、じっとこちらをうかがっている。つやつやとした見事な黒毛が、枯れ草のな
かから、異様な光沢をはなっていた。
「クロ、クロ……」
村井刑事がこころみに呼んでみると、枯れ草のなかから黒猫が、
「ニャーオ」
と、人懐っこい声をあげた。
「来い、来い、クロよ、クロよ」
村井刑事が猫撫で声で呼んでやると、
「ニャーオ」
と、甘えるような声をあげながら、黒猫はのっしのっしと崖をおりて来た。そして、そ
こに立っているひとびとを、とがめるような眼で見上げていたが、そのまま、勝手口から
なかへ入っていった。
「なあんだ。猫は二匹いたんじゃないか。長谷川君、君がちかごろ見たというのは、いま
のやつだろう」
「そうかも知れません。でも、よく似ているものだから……」
「ふん、どっちも黒猫だから見分けがつかない。それに大きさも同じくらいだし、……つ
まり、まえの猫が死んだので、どこからか、後あと釜がまを持って来ておいたんだね」
「そうかも知れません。私も猫の戸籍まで調べるわけではありませんので、つい気がつき
ませんでした」
長谷川巡査は柄にもなく警句を吐いた。司法主任は苦笑いしながら、
「そうそう、戸籍といえば、戸籍簿持って来たろうね」
「ええ、持って来ました。ついでに、町会の事務所へも寄って、調べられるだけのことは
調べて来ました」
「ああ、そう、じゃ、なかへ入って聞こう。村井君、君は家の中をよく調べてくれたま
え。犯行はこの家ン中で、行なわれたにちがいないと思うが、と、すれば、きっとどこか
に、痕跡がのこっている筈だからね」
司法主任は長谷川巡査をつれて、勝手口からなかへ入っていった。
こういう商売をする家の、どこでもがそうであるように、「黒猫」も、とおり庭になっ
ていて、勝手口から入っていくと、すぐ左に六畳の部屋があった。そこが経営者夫婦の居
間になっていたらしく、階下で畳がしけるのはそこだけで、他は全部土間になっており、
表の酒場とこの居間とのあいだに調理場があった。司法主任と長谷川巡査は、この調理場
を抜けて、表の土間へ出ていった。
まえにもいったとおりこの店は、目下新しい経営者の手で改装中なのだが、朝が早いの
で、まだ大工も職人も来ていなかった。土間には削りかけの板があちこちに立てかけてあ
り、鉋かんな屑くずがいちめんに散乱していた。司法主任は土間のすみにあるテーブル
に、椅子をひきよせて腰をおろすと、
「君もそこへ腰をかけたまえ」
と、相手の腰をおろすのを待って、
「よし、それじゃ話をきこう」
と、促すように長谷川巡査の顔を見た。