「ところが、そうして手切れ金までとって別れながら、実際は、お繁と旦那の仲は、きれ
いになっていないらしいんです。最近まで、ちょくちょく逢っていたということです、亭
主もそれを知っていて、よく、夫婦のあいだに悶もん着ちやくが起こったそうですが、な
にしろ、亭主にしてみれば、ここンところ女房に頭があがりませんや。女房の腕で、無一
文の引き揚げ者が、とにかく食っていけるんですからね。それに、この亭主のほうにも、
ほかに女があったというんです」
「ほほう。で、その女というのは?」
「それがね、やっぱり中国からの引き揚げ者なんです。さっきも申し上げましたが、亭主
の大伍は女房より、ひとあしおくれて引き揚げて来ましたが、そのとき、船でいっしょに
なった女なんだそうです。それで内地にかえってから、糸島がお繁を探し出すまで、しば
らく同棲していたらしい。それのみならず、糸島がお繁と元の鞘さやにおさまってから
も、ときどき、逢っていたらしいというんです」
「それも、やっぱりお君の話かね」
「ええ、そうです」
「お君は、しかし、どうしてそんな、詳しい話を知っているんだね」
「それはマダムからきいたんですね。マダムは彼女をスパイに使っていたらしく、一度お
君は、マダムの命令で亭主のあとを尾行して、糸島がその女と逢っているところを、突き
止めたことがあるそうです」
「すると、マダムもその女の存在を知っていたわけだね。ところで、お君が亭主を尾行し
たという話、それ、もうすこし詳しくわからないかね」
「ええ、その話を、お君も得意になってしゃべっていましたから、私もよく憶えています
が、だいたい、こんないきさつのようでした」
ちかごろでは、酒も料理も不自由だから、「黒猫」でもよく休むことがあったが、そん
な時には、マダムはきまって一人で外出した。いうまでもなく、旦那とどこかで逢うため
だった。それを知っているから、あとに残った亭主の糸島は、いつもとても不機嫌だっ
た。日頃はめったにあらい言葉を使わぬ男だのに、そんな時にはしたたか酒を呷あおっ
て、お君に当たり散らしたりした。マダムがかえって来ると、いつもひと悶着起こるの
だった。ところが、そのうちに、糸島の様子が急に変わって来た。女房が出かけると、自
分もそわそわと出かけるようになった。お君はそれを妙に思ったのである。どうもちかご
ろのマスターの様子はおかしい。──と、そこでこっそり、マダムにそのことを耳打ちする
と、お繁ははっと思い当たるところがあったらしく、今度自分が出かけたあとで、マス
ターが外出したら、こっそりあとをつけておくれ。──
「と、そういうわけで、お君は糸島の尾行をしたんですね」
「そして、相手の女というのを見たんだね、いったい、どういう女なんだね。そいつは」
「なんでも、二十四、五の、とても印象の派手な女だそうです。断髪の、口紅の濃い、ひ
とめ見て、ダンサーかレヴィユーの踊り子と、いったかんじの女だったそうです。糸島は
その女と新宿駅であって、井いの頭がしらへいって、変な家へ入った。──と、そこまで見
届けて、マダムに報告すると、さあ、マダムが口惜しがってね。その女ならまえに日華ダ
ンスホールにいた、鮎子という女にちがいない。糸島といっしょに、中国からかえって来
た女だが、ちきしょう、それじゃまだ、手が切れていないんだね。──というようなわけ
で、その晩はなんでも亭主とのあいだに、大悶着が起きたそうです。いや、あの晩ばかり
じゃない。それ以来、常に雲行き険悪で、夫婦のあいだにいざこざが絶えなかったといい
ます。しかし、そのうちに、マダムのほうでしだいに反省して来たんですね。ちかごろ
じゃ、こんな生活、一日も早く清算したい。貧乏してもいいから、夫婦まともに暮らして
いきたいなんてことを、口癖のようにいっていたそうです。そして、それには東京にいて
は、いままでのひっかかりがあるから夫婦とも駄目だ。いっそどっか遠いところへ行って
しまいたい。──と、そんなことをいってた矢先ですから、マスターが突然、店の閉鎖を申
しわたしても、お君はそれほど、驚きはしなかったというんです」
司法主任はしばらく無言で、いまの話をあたまの中で組み立てていた。こんな話、かく
べつ新しいことではない。この社会にはザラにある話であった。しかし、それにもかかわ
らず、司法主任は何かそこにえたいの知れぬ、うすら寒いものをかんじずにはいられな
かった。表面にういているその事実の底に、何かしら、一種異様なドス黒さが、よどんで
いるように思われてならないのだった。