マスターという人はいつもにこにこした、物柔かな人物だったが、どこか底気味悪いと
ころがあった。マダムもしじゅう何かおそれているようであった。マダムがその後も、別
れた旦那に逢いつづけていたのは、マスターの命令で、旦那から金をしぼっていたらしい
が、マダムはむしろ、その旦那に惚ほれていたらしく、だから、自分の命令で出してやり
ながら、マスターはいつも、マダムが出ていったあとは不機嫌だった。ところが近ごろ、
鮎子という女と撚よりがもどったらしく、マダムが出かけると、きっとソワソワとしてあ
とから出かけた。そこで今度は、マダムのほうが不機嫌で、よくマスターに当たり散らし
ていた。とにかく、何んとなく気味の悪い夫婦であった。
司法主任がこういう聴き取りをしているあいだ、部屋の隅に坐って、終始無言で、聞き
耳を立てていたのは村井刑事だった。そのあいだ、かれは一度も口を利こうとはしなかっ
た。聴き取りがおわって、女たちがかえってからも、かれは無言で、仏様のように、つく
ねんとかんがえこんでいた。司法主任もしばらく無言で、いまとったメモを読み返してい
たが、やがて、村井刑事のほうを振りかえると、
「要するに、問題は鮎子という女だね。その女が被害者であるか、ないかはしばらくおく
としても、──十中八九、それに間違いないと思うが──とにかく、その女のことを徹底的
に、調べてみる必要があるね」
村井刑事は無言のままうなずいた。
「その事はそう大して、むつかしい事じゃあるまいと思う。日華ダンスホールにいたこと
があるというんだから、そこから探っていけばわかるだろう」
村井刑事はまた無言のままうなずいた。それからおもむろにこういった。
「それから風間という人物ですね。これもいちど、よく調べてみる必要がありますね」
「そう、なんといっても、お繁にとっちゃ金かね蔓づるらしいからね。しかし、土建業の
親分といえば、一ひと筋すじ縄なわじゃいかんぜ。そのつもりで当たってみてくれたま
え。こっちはともかく、糸島夫妻について手配をしてみる。どうせ、神戸なんて、噓っぱ
ちにきまっているんだ。しかし、弱ったな。写真でもあるといいんだが……」
外地から引き揚げてきて、まだ間もない夫婦だから、写真というものがいちまいもな
かった。そして、この事がこの事件に、大きな意味を持っていたことが、後になってわ
かったのである。
村井刑事はしばらく、無言でもじもじしていたが、やがて思い切ったように口を開い
て、
「ところで、警部さん、私にはひとつ、不思議でならないことがあるんですがねえ。マダ
ムのお繁ですが、あの女はなぜそのように、用心深く顔をかくしていたんでしょう。病気
というのはわかります。あんな恐ろしい人殺しをしたんだから、良心の呵か責しやくと恐
怖のために、寝込んでしまったということはありましょう。しかし、二週間といえば相当
長い期間ですよ。そのあいだ三人の女に、一度も顔を見せなかったというのは、いったい
どういうわけでしょう。なぜ、そんなに用心深く……」
「ふむ、それは私も変に思っているんだが、ひょっとすると、鮎子を殺すとき、自分も怪
我をしたんじゃないか。顔をひっかかれるかなんか……」
村井刑事はうなずいた。
「そうかも知れません、それも一つの解釈です。しかし……」
「しかし……?」
村井刑事はそのあとを語らなかった。急に言葉をかえて、
「それから、もう一つ不思議なのは、あの黒猫です。あの猫はなぜ殺されたのでしょう」
「それはなんだ。きっと、人殺しのとばっちりを受けて怪我をしたんだ。で、あとで女た
ちに怪しまれちゃいけないというので、殺してしまったんだよ。その証拠に、あの部屋に
のこっていた血痕のなかには、人間の血にまじって、猫の血もあったそうだ」
刑事は何かいおうとしたが、今度も気をかえたように、
「いや、どちらにしても、鮎子という女のことを、もうすこし詳しく知るということが先
決問題です。とにかく行って来ましょう」
村井刑事は帽子をとって立ちあがった。そして部屋を出ていった。