村井刑事はそこでまた話題を転じて、糸島という男が、いつ頃引き揚げて来たか訊ねて
みた。すると風間は意外に正確に、時日から船の名前まで知っていて、
「あの男の引き揚げて来たのは去年の四月で、船はY丸、博多へ入港したんです、お繁が
かえって来たのは、一昨年の十月だから、半年おくれたわけですね。わたしがなぜ、そん
なに正確に知っているかというと、わたしの識り合いで、糸島とおなじ船で引き揚げて来
た男があるんです」
村井刑事はそれをきくと、思わず胸を躍らせた。そこでその識り合いというのを紹介し
て貰えぬか、というと、風間はちょっと、驚いたように刑事の顔を見なおしたが、
「ああ、そうそう、鮎子という女も、その船に乗っていたんでしたね。ええ、ようがすと
も」
風間は名刺の裏に紹介の文句を、さらさら書くと刑事に渡して、
「刑事さん、今度の人殺しについちゃ、わたしは全然関係ありません。しかし、自分でも
気のつかないところで、何かひっかかりがあるような場合がないとも限らない。そんなこ
とがあったらいつでも来て下さい。自分の行為については十分責任を負います」
刑事は名刺をもらって事務所を出た。
糸島とおなじ船で、引き揚げて来た人物が見つかったというのは、刑事の捜査にとって
非常に好都合であった。かれは風間の名刺を持って、翌日その人を訪ねていった。しか
し、その人は糸島のことも鮎子のことも、あまりよく憶えていなかったので、刑事はその
人から紹介状をもらって、更に別の引き揚げ者を探していった。こうしてそれから数日
間、つぎからつぎへと、Y丸で引き揚げて来た人物を訪ねてまわったが、その結果、刑事
の知り得た事実は、だいたいつぎのとおりであった。
糸島といっしょに引き揚げて来た女は、小野千代子という女であった。その女は満州か
ら単身華北へ入り、Y丸が出るすこしまえに、天津へ辿たどりついたので、誰も彼女の素
性を知っている者はなかった。船に乗りこむまえから糸島はしじゅうその女といっしょ
で、何かと面倒を見てやっていた。かれがあまり親切なので、知らない者は、はじめから
一緒だと思っていたくらいであった。内地へ上陸するときももちろん一緒で、どうやらつ
れ立って東上したらしい。──と、そこまではわかっていたが、さて、それから後の二人の
消息を、知っている者はひとりもなかった。刑事もこれには失望したが、更にかれを失望
させたのは、その人たちがいまかりに、小野千代子にあったとしても、果たして彼女を、
認めることが出来るかどうかという疑問であった。と、いうのは、千代子は髪を切って男
装していたのみならず、顔なども泥どろや煤すすをぬって、わざと穢きたなくしていたか
ら、誰も彼女のほんとの器量を識っているものはなかった。ただ、年齢は二十五、六であ
ろうということであった。
「しかし、そのことは大して必要でもないじゃないか。かりにその女の顔を、憶えている
ものがあるとしても、屍骸はあのとおり、相好の見分けもつかぬ程くさっているのだか
ら、証人になってもらうわけにもいくまいよ」
「ええ、それはそうですけれどねえ」
署長の言葉に、刑事は煮え切らぬ返事をしたが、
「時に、糸島とお繁の消息について、その後どこからも情報はありませんか」
「それがないから弱っているんだ。G町の交番の前を通っていったあと、全然あしどりが
わかっていない。畜生、よっぽどうまくかくれていやアがるんだね。まさか風間という男
が、変な義俠心を出して、かくまっているんじゃないだろうね」
「まさか……あの男にそんなことを、しなければならぬ義理はありませんからね」
こうして行き悩みのまま数日過ぎた。そして、そこへあの恐ろしい暴露の二十六日が来
たのである。暴露のきっかけは、こういうふうにやって来た。