ふうむ──と、署長はうなっていたが、急に思い出したように、
「あっ、そうだ、しかし、長谷川巡査は十四日の晩、糸島とマダムのふたりが、交番のま
えをとおるのを見たといってるぜ」
しかし、長谷川巡査も実際は、マダムの顔をはっきり見たのでないことが間もなくわ
かった。その女はショールを鼻の頭にあて、糸島のからだにかくれるようにして、うつむ
きがちに通り過ぎたのであった。その場の様子から、長谷川巡査がいちずにそれを、マダ
ムだと思いこんだのは、あながち無理とはいえなかった。こうなると、もう、日兆の言葉
を疑う余地はなくなった。殺されたのは鮎子ではなくマダムである。鮎子はかえって犯人
だった。
こうして事件は、根本からひっくりかえった。糸島大伍ならびに妻繁子の代わりに、あ
らためて、糸島大伍ならびに情婦鮎子の捜査手配が、全国の警察へ指令された。
この新事実はその日の夕刊新聞に、デカデカと書き立てられたが、この記事を見て、非
常に驚き、かつ、興味をかんじた人間がふたりある。風間俊六はこの新聞を仮り事務所で
見て、茫ぼう然ぜんと眼をこすった。それからかれは檻おりのなかのライオンみたいに、
部屋のなかをいきつもどりつしていたが、やがて、唇をきっとへの字なりに結んだまま事
務所をとび出した。
それから間もなくかれがやって来たのは、大森の山の手にある、松月というかなり豪勢
な割烹旅館だった。戦後、ふつうの住宅はなかなか建たないけれど、こういう種類の家は
どんどん建つ。松月というこの家は、風間がお得意さきを饗きよう応おうするために自分
で建てたもので、二号だか、三号だかにやらせているのである。
「あら、旦那……まあ、旦那でしたの」
きれいに打ち水をした玄関の沓くつ脱ぬぎで、風間が靴の紐ひもをといていると、あわ
てて奥からとび出したのは、伊い勢せ音おん頭どの万野みたいな女中頭であった。
「ああ、おちかさん、──あれはいるだろうね」
「ええ、おかみさん、いまお風呂」
「ううん、おせつじゃないんだ。ほら、例のさ」
「ああ、旦那の新いろ。……いやな旦那ねえ。来ると早々、おかみさんのことはそっちの
けですぐそれだもん。おかみさん、だからいってますよ。あの人が女ならただじゃおかな
いって。ほっほっほ、妬やけるのね。ええ、ええ、いらっしゃいますとも、どこへも逃が
すことじゃないから御心配なく」
風間はにが笑いをしながら、
「また、寝てるんだろう」
「ところが大違い。さっき夕刊を見ると、何んだか急に大騒ぎになって、このあいだから
の新聞を、かたっぱしから持ってこいって、たいへんな権幕なんですよ」
「新聞……?」
風間ははっとしたように眼を光らせたが、そのまま大おお股またに奥へ入っていった。
かれの声をききつけて、大急ぎで風呂からとび出したらしい女が、なにか声をかけるのを
振り向きもせず、廊下づたいに奥のはなれへやって来ると、
「耕ちゃん、いるか」
と、がらりと障子をひらいたが、すると、しゃれた四畳半のまんなかで、新聞に埋まっ
て坐っているのは、なんと、金田一耕助ではないか。
金田一耕助は風間の顔を見ると、
「き、き、き、君、か、か、か、風間……」
と、たいへんな吃どもりようで、
「こ、こ、この事件は、か、か、か、顔のない屍体の事件だね。ひ、ひ、被害者と、か、
か、加害者がいれかわっている。お、お、岡山のYさんに、し、し、報らせてやると喜ぶ
ぜ」
わけのわからぬ事をいいながら、五本の指でもじゃもじゃ頭をかきまわし、それから阿
房みたいにゲタゲタ笑ったのである。