「話がちょっと変な切り出しになりますが、探偵小説には『顔のない屍体』というテーマ
があるそうです。これはぼくも最近、岡山のほうにいる友人からきいたのですが、それは
こういうのです。Aなる人物がBなる人物を殺そうとする。しかし、ただ殺しただけで
は、すぐに自分に疑いがかかるおそれがある。つまりAにはBを殺す動機があることを、
世間では知っているんですね。そこでAはBを殺すと、その顔をめちゃめちゃにしてお
き、屍体に自分の着物を着せるかなんかして、恰あたかも殺されたのは自分、即ちAなる
が如く見せかける。そうしておいて身をかくすと、世間では、BがAを殺して出奔したも
のと思うから、Bの人相書きによって犯人を探そうとする。だからAは安全に、死んだも
のとなって、かくれていることが出来る、と、こういうトリックなんです。今度の事件も
それと非常によく似ていますが、よくよく考えてみると、根本的にちがったところがあ
る。即ち、まえの場合では、身替わりに立てる屍体、即ちBなる人物を殺すことが第一の
目的で、そのために犯罪が起こるのです。ところが、今度の事件の場合はそうでない。お
繁が身替わりに立てた女、あの女に対してお繁はなんの恩怨もなかった。彼女の目的は唯
一つ、亭主の糸島大伍を殺すことにあった。それがふつうの探偵小説における『顔のない
屍体』と、ちがうところですが、それだけに、この動機を見抜かれた瞬間、お繁は敗北し
なければならなかったわけです」
金田一耕助はまた、気の抜けたビールで咽喉をうるおすと、
「ぼくは風間から、お繁の前身に関する疑惑をきいた瞬間、この動機に気がついた。そし
て、昭和十二年の松田花子の一件を発見したとき、いよいよ、この動機は確定的なものだ
と思いました。松田花子は姑しゆうとめを毒殺しようとして、あやまって良人を殺した。
そして中国へ高跳びした。むろん、彼女は名前もかえ、素性もふかく包んでいたにちがい
ない。それをどういうはずみか、糸島大伍に発見され、脅喝されて夫婦になった。糸島は
きっと向こうでも、お繁の美び貌ぼうと肉体をたねに、悪どいことをやっていたにちがい
ない。そういう夫婦のあいだに、愛情などあろう筈がありません。糸島のほうでは、それ
でも欲ばかりではなく、女に惚れていたらしいが、女のほうでは亭主に対して、憎しみ以
外のどんな感情も、抱くことは出来なかったにちがいない。それにも拘かかわらず、糸島
から逃げることが出来なかったのは、秘密を暴ばらされることを恐れたからですが、この
暴露をおそれる彼女は、糸島をおそれると同時に、日本へかえるということを、何よりも
恐れたにちがいない。おそらく彼女は、生涯外地で暮すつもりだったのでしょうが、そこ
へ今度の敗戦で、否応なしに内地へ送還されることになった。まったくこればかりは、い
やもおうもありませんから、お繁にもどうすることも出来なかった。だが、ここでお繁は
かんがえたのです。こわい内地へ、こわい男といっしょにかえる。せめて、そのひとつで
もふり落としてしまいたい。……そう考えたから彼女は糸島をまいて、わざとひとりで、
さきへ帰国して来たのです。永遠に、ふり捨てようとした内地へ送還される代わりには、
自分の秘密を知った糸島のほうを、この機会に永遠にふり捨てようとしたんです。こうし
て内地へかえって来た彼女は、出来るだけ東京をはなれて住みたかったにちがいないが、
東京うまれの東京育ちの彼女には、結局、東京を遠くはなれたところには住めなかった。
それに、あの時からすでに十年もたっているし、ことにこの十年はお繁にとって、十五年
にも、二十年にも相当していたにちがいないから、顔かたちもすっかり変わってしまっ
た。あの頃の子供っぽい丸味はあとかたもなくなって、いまではむしろ面長になってい
る。彼女はそういう変化に自信をもっていたが、さらにそれを強調するために、昔とは
まったく趣味のちがった日本髪に結い、服装も古風な日本趣味によそおうことにしてい
た。こうして、彼女は横浜のキャバレーへ出ているうちに風間にあい、かれに囲われるこ
とになった。彼女はそこではじめて、安住の地を見出したばかりか、おそらく、うまれて
はじめて男に惚れたんです。生活の安定と愛欲の満足と、ふたつながら得た彼女は、幸福
に酔いしれていたにちがいない、ところがそこへ糸島がかえって来た。永遠にふりすてた
つもりの糸島がかえって来て、彼女のまえへ現われた。その時の、お繁の憤りはどんなも
のだったでしょう。生活だけの問題ならば、お繁にもまだ諦めがついた。しかし、今度
は、風間という男に惚れているのだから、諦めきれない未練がそこにのこった。せっかく
かち得た幸福を、こうも無残にうちくじく男。──お繁はもう、この男を殺してしまうより
ほかに、未来永えい劫ごう、幸福はあり得ないことに気がついた。そうです、糸島大伍と
いう男は、内地へかえって来て、お繁を探し出し、お繁の面前に立った瞬間、死を宣告さ
れたのも同様です」