金田一耕助はそこでひといき入れると、気の抜けたビールで咽喉をうるおし、さらにま
た話のつづきを語りはじめた。
「二つの日記というのは、風間とお君ちゃんの日記でした。風間が日記をつけていたの
は、大して不思議ではないが、お君ちゃんが過去一年、一日も欠かさずに日記をつけてい
たのは、何んといってもえらいもんです。しかも、その日記こそ、この事件のいちばん奇
怪な謎を解明する、唯一のヒントになったのだから、今度の事件の第一の手柄者は、なん
といってもお君ちゃんですよ。と、いうのはこういうわけです。『黒猫』では毎月二回な
いし三回休業する。ところがお君ちゃんの日記によると、去年までは、お繁は必ずしも休
みごとに、風間にあいに出かけたわけでなく、月に一度ときまっていた。その他の休みは
家にいるか、糸島と二人であそびに出かけるかしている。お繁が休みごとに、風間に会い
にいくと称して、出かけるようになったのは、ことしになってからのことなんです。とこ
ろが風間の日記によると、かれはそれほどお繁にあっていない。去年とおなじく月に一度
ときまっているのです。では、風間にあっていないお繁は、いったい、どこへ行っていた
か。──ところが、更に妙なのは、ちかごろお繁が出かけると、きっとあとから、亭主の糸
島も出かけたというが、必ずしもそうではない。お繁が出かけても、糸島がおとなしく家
にいる場合もある。しかも、なんとその日こそ、お繁がほんとに風間にあっている日なん
です。そして、お繁がどこへ行ったかわからぬ日には、きまってあとから亭主が出かけて
いる。ぼくはあのダンサーに会って、彼女が日劇のまえで、鮎子にあったという日を、思
い出して貰いましたが、それも、やっぱりお繁がどこへ行ったか分からん日です。また、
お君ちゃんが糸島を尾行して、鮎子という女を見たというのも、やっぱり同じことでし
た。この事実に気付いたとき、ぼくはなんともいえぬ大きなショックをかんじました。お
繁と鮎子はおなじ人間である。即ちお繁が一人二役を演じたのである。まさか、一足跳び
にそこまでは飛躍しませんでしたが、いろいろ考えているうちに、結局、そういう結論
に、到達せざるを得なくなった。さて、一応この結論を正しいとみて、そこに何か、矛盾
があるかとかんがえてみたが、何もなかった。お繁と鮎子の両方を見たことのある人間
は、お君ちゃん唯一人である。そのお君ちゃんとて雑踏のなかで、遠くのほうから、ちら
と、鮎子を見ているに過ぎない。そのお君ちゃんの眼を、ゴマ化すぐらいはなんでもな
い。お繁はふだん日本髪で渋い日本趣味の服装をしている。それに反して鮎子は断髪で、
毒々しい化粧をしているのだから、お君ちゃんが欺かれたのも無理はないのです。その他
の人々にいたっては、お繁を知ってるものは鮎子を知らず、鮎子を知っているものは、お
繁を知っていない。さらにまた、鮎子が糸島といっしょに中国からかえって来たこと、鮎
子が糸島の情婦であること、それらは全部お繁の口から出たことで、ほかにはなんの証拠
もない。──即ち鮎子はお繁の二役だったのだ。それでこそ、何もかも辻つじ褄つまがあ
う。つまり、お繁は、亭主が自分を殺したという、シチュエーションをきずきあげるため
に、亭主に動機をこさえてやっていたのです。こう気がついたときには、ぼくはあまりの
奸悪さにふるえあがりましたよ。眼をおおいたくなったもんです。自分でかんがえ出しな
がら、自分の説を信じるのが怖かったぐらいです。しかし、この説が正しいことはすぐ証
明されました。日華ダンスホールの人たちに、松田花子の写真を見せたところ、だいぶ変
わっているけれど、そういえばたしかにこの人にちがいない。と、そういうんです。一
方、その写真は、お繁の若いころの、写真らしいということになっている。これでもう、
お繁の一人二役は、動かすことの出来ない事実となったわけです」
金田一耕助はそこでまたひと息いれると、じっとビールのコップを視詰めていた。誰も
口を利くものはなかった。やりきれないような重っくるしい沈黙が、しばらく部屋のなか
につづいたが、やがて署長と司法主任がほとんど同時に口をひらいた。