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第一章 悪魔が来りて笛を吹く(3)_悪魔が来りて笛を吹く(恶魔吹着笛子来)_横沟正史_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3335

 その事件とはほかでもない。一世を震しん撼かんさせたあの天銀堂事件である。

 天銀堂事件──と、こう書いただけでも、諸君はおそらくドキッとされることだろう。そ

れほどこの事件の記憶はなまなましく、いまにいたるも世の人の脳のう裡りにこびりつい

ている。

 この前代未聞といわれ、世界犯罪史上にも類例がないと、海外の新聞にまで宣伝された

事件を、いまさらここに詳述するまでもあるまいと思うが、それでも念のために、簡単に

紹介しておこう。

 それはその年の一月十五日、午前十時ごろのことであった。銀座でも有名な宝石商、天

銀堂の店先へ、ひとりの男がはいってきた。

 その男というのは年配四十前後の色の浅黒い、ちょっと貴族的な印象をひとにあたえる

好男子だったが、腕に都の衛生係の腕章をまきつけ、片手に医者の持つような鞄かばんを

かかえていた。

 その男は店のすぐ奥にある支配人室で支配人に面会すると、東京都衛生局の肩書きのは

いった、井口一郎という名刺を出して見せ、この付近に伝染病が発生したから、客に接す

る店員たちは、全部予防薬を飲まなければならぬと力説した。

 後になって、このときの支配人や店員たちの行動を、あまりにも役人の肩書きに盲従す

る、非民主的なものとして非難するひともあったが、実際において井口一郎と名乗る人物

の人柄があまりにもすぐれており、態度も平静で自信にみちていたので、誰ひとり、疑惑

をさしはさむ余地がなかったのである。

 そこで支配人はただちに店員たちを、支配人室に呼びあつめた。まだ朝のことで、そう

客がつめかけてくるはずはなかったし、店員たちも陳列棚の飾りつけをおわったばかりの

ところで、手がすいていたので、支配人に呼ばれると、ひとり残らずやってきた。表の店

員のみならず、奥働きの掃除婦までがかりあつめられた。その人数は支配人をもふくめ

て、十三人だった。

 さて、井口一郎と名乗る怪人物は、そのとき店内にいたものが全部あつまったと見る

と、おもむろに鞄のなかから、二種類の瓶をとりだし、それを人数のかずだけ湯ゆ呑のみ

についだ。そしてみずからそれの飲みかたを指導したのである。

 数秒ののち、あのような凄せい惨さんな運命が、自分たちを待っていようとは、夢にも

知らぬこの善良なひとたちは指導されるままに二種の薬液をのみほした。そしてそれから

数瞬のうちに、あの恐ろしい地獄絵巻きがくりひろげられたのである。

 飲まされたのは青酸加里だった。店員たちは将棋倒しにその場に倒れた。倒れるとすぐ

に呼吸をひきとったものもあるが、なかには断末魔の呻うめき声をあげながら、のたうち

まわるものもあった。

 井口一郎と名乗る怪人物は、それを見ると自分の持ち物一切を鞄へねじこみ、支配人室

からとび出すと、店に飾ってあった宝石類をひっつかみ、銀座街頭を逃亡していったので

ある。後になって厳密に調査されたところによると、このとき犯人のうばっていった宝石

類は案外少なく、時価にして三十万円ぐらいのものであろうといわれている。

 さて、この凄惨な事件が発見されたのは、犯人が逃亡してから十分ほどのちのことで

あった。たまたま店へはいってきた客のひとりが、ドアの奥からきこえる異様なうめき声

と、救いを求めるかすかな悲鳴におどろいて、ドアの内側をのぞいてみたところから、こ

の前代未聞の大騒動の幕が切って落とされたのである。


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