そういうわがままな伯爵と、道楽者の義兄が乗りこんできて、わがものがおに振舞い、
二言目には子爵のことを、無能者とののしっていたというのだから、いかに温厚な英輔氏
といえども、やりきれなくなったのも無理はないと、消息通のあいだではいわれていた。
それはさておき、椿子爵の失踪が生死不明のまま、新聞で騒がれていたころ、機を見る
に敏なレコード会社によって売り出されたのがあの「悪魔が来りて笛を吹く」のレコード
であった。そして、まえにもいったように、このレコードのなかにこそ、多くの意味がふ
くまれていたのだが、当時はまだ誰もそれに気がつかなかったし、また歌謡曲などとち
がって、洋楽器のなかでもことに渋いフルートのソロのことだから、これはあまり大して
評判にならなかったようだ。
椿英輔の消息は、二か月ちかくもわからなかった。しかし、多くのひとはもうその自殺
を信じて疑わなかった。英輔氏は終戦後、おりにふれて死について語っていたし、同じ死
ぬなら、誰にも死体の見つからないような場所で、ひとり静かに死んでいきたいといって
いたから、どこかの山の中ででも死んでいるのだろうといわれていた。そして、その予想
はみごと的中したのである。
英輔氏が家を出てから、四十五日たった四月十四日、信州霧きりケが峰みねの林のなか
で、男の死体が発見された。服装持ち物その他から、かねて手配中の椿英輔氏と判断され
たので、すぐそのむねが六本木の屋敷へ報告された。
このとき六本木のうちでは、誰が死体を引きとりにいくかということについて、ひと悶
もん着ちやくあったそうである。夫人の 子は良人失踪のショックで、からだを悪くしてい
たし、それに元来この婦人は、そういうことには不向きな人柄なので、令嬢美み禰ね子こ
が代わりにいくことになった。そうきまると、いとこの一かず彦ひこが同伴を申し出た。
一彦は英輔の甥であると同時に、フルートの弟子ででもあったのである。
しかし、この二人だけでは心こころ許もとなかった。一彦は二十一歳、美禰子は十九
歳、どちらも年が若過ぎるから、誰か世故にたけたものがついていく必要があった。それ
には一彦の父の利彦こそ、もっとも適任と思われたが、利彦は、なかなかうんといわな
かった。かれは義弟の死体など引きとりにいくより、妹をいたぶって高級パンパンを買い
にいくか、それとも誰かにたかってゴルフでもしていたかったのである。
しかし結局妹に泣きつかれ、その代わりあとでたんまり遊びの軍資金をもらう約束で、
一彦と美禰子をつれて出かけた。お供には、戦後英輔氏がひきとって面倒を見ていた友人
の遺児、三み島しま東とう太た郎ろうという青年がついていったが、結局現地でいっさい
の手続きを、テキパキと片付けていったのは、この三島東太郎という青年だった。
死体は上かみ諏す訪わで解剖されたのち、荼だ毘びに付されたが、ただここに驚くべき
ことには、周囲の状態や医者の検けん屍しによると、英輔氏は三月一日家を出ると、すぐ
その足でその場所へやってきて、青酸加里を服用したらしく思えるのに、死体はまだほと
んど腐敗していなかったのである。むろん、生きているときから見ると、いくらか相そう
好ごうはかわっていたものの、げんざいの娘や義兄や甥たちが、ひと目見て、英輔氏と識
別されるだけの容よう貌ぼうはたもっていたのである。おそらくそれは寒冷な、その土地
の気温のせいだったろうといわれている。
こうして椿英輔氏は、みずからこの世からその存在を抹殺した。三月一日に死んだとし
たら、かれはまだ、子爵であったはずである。おそらく椿英輔氏は、貴族であるうちに、
貴族として死にたかったのであろう。
こうして椿英輔子爵の失踪事件は、一応ケリがついたかのように思われた。しかし、実
際はそうではなかったのだ。
それから半年ののち、悪魔が高らかに呪のろいの笛を吹きはじめるに及んで、英輔氏の
失踪事件は、もう一度新しい角度から、見直されることになったのである。