「ぼくはあの事件を新聞で読んだきりなので、詳しいことは知らないのですが、お父さん
の亡なき骸がらは、たしか信州かどこかの山の中で、発見されたんでしたね」
「はあ、霧ケ峰でした」
「あれは家を出てから何日目でしたかしら」
「四十五日目でした」
「なるほど、すると死体が腐敗していて、相好の識み別わけがつかなかったとか……新聞
ではしかし、椿子爵とハッキリわかったというようなことが、書いてあったと思います
が……」
「いいえ、死体はまだほとんど腐敗してはいませんでした。それは気味悪いくらいでござ
いました」
「それじゃあなたは亡骸をごらんになったんですね」
「ええ、あたし死体をひきとりにいったんです。母がいやがるものですから。……」
母という言葉のひびきに、かすかなかげりがあったので、金田一耕助はおやと相手の顔
を見直した。美禰子もそれに気がついたのか、耳たぶをちょっと染めてうつむいたが、す
ぐまたきっと顔をあげる。耳たぶの火はすぐにひいて依然として暗い影が、女のからだを
くるんでいる。
「そのときあなたはその死体を、たしかにお父さんだと認められたんですね」
「はあ」
美禰子はうなずいてから、
「いまでもそう信じています」
金田一耕助は不思議そうに相手の顔を見まもりながら、何かいおうとしたが、すぐ思い
なおしたように、
「そのときあなたはおひとりでしたか。ほかにどなたもいっしょに行かなかったのです
か」
「伯お父じといとこがいっしょに行ってくれました。それから三島さんというかた
も……」
「そのひとたちもお父さんをよく御存じなのでしょう」
「はあ」
「そのひとたちもその死体を、お父さんだと認めたんではなかったのですか」
「認めました」
金田一耕助はいよいよ眉まゆをひそめて、
「それなのに、どうしていまになって、お父さんが生きているのではないか、というよう
な疑問が起こったんです」
「先生」
美禰子は急にねつい調子になって、
「あたしはそれを父だと信じます。いまでもそう信じています。しかし、腐敗していな
かったとはいえ、顔かたちは、やっぱり生前とはだいぶちがっていたんです。それは自殺
するまでの苦悩や煩はん悶もん、薬をのんだあとの苦痛のためだと思いますが、そのとき
も、誰かがひとが違ってるようだと呟つぶやいたのをおぼえています。あたし自身もそう
思ったのです。だからあとになってその死体を、父じゃなかったのではないかと、あまり
しつこくいわれると、そんなことは絶対ないと信じながら、いくらか動揺を感じずにはい
られなくなるのです。げんざいの娘、しかも死体をいちばんよく見たあたしがそれですか
ら、ほかのひとたちがしだいに不安を感じてきたのも無理はございません。伯父なんか気
味悪がって、ろくすっぽ顔も見なかったくらいですから。……」
伯父という言葉が口を出るとき、美禰子の声はまたいくらかかげってかすれた。