閉めきった、せまい、静かな部屋のなかに、蟇仙人のひくい、抑揚にとんだ声が、羽虫
の唸うなりのように、いつまでもいつまでもつづいている。それを黙ってきいていると、
いつか夢見心地になってくる。
(いけない!)
金田一耕助は心のなかで叫んだ。
(こんなことをしていたら、自己催眠にかかってしまう!)
そこで金田一耕助は、気をまぎらせるために、そっと左右を見まわしたが、すると妙な
ことに気がついたのである。
かれの左側には三島東太郎が坐っていて、いまや無我の境に入りかけているらしかった
が、見ると不思議なことには、円卓のはしに揃えておいた両手のうち、かれは右手にだけ
手袋をはめているのである。
金田一耕助はおやと思った。そして見るともなしに見ていると、かれにもどうやら東太
郎が、右手にだけ手袋をはめている理由がのみこめてきた。無我の境に入りかけている東
太郎の両手の指は、いま、かすかに震動している。ところがそれらの指のうち、右手の中
指と薬指だけが、他の指の震動といささかちがっているのである。
金田一耕助はすぐ、その二本の指が欠けているのだろうと思った。根ね本もとからか、
それとも途中からか知らないけれど、そして、その醜さをかくすために、かれだけが常
時、右手に手袋をはめている特権を許されているのであろう。
そうわかってくると、耕助はいつまでもその手を視つめている無礼さに気がついて、眼
をそらして右側を見た。と、そのとたんかれは、ドキッとするようなものを感じた。
耕助の右側には菊江が坐っている。菊江もまた両手をそろえて円卓のはしにおいている
のだが、彼女もまた左手の小指が、途中から欠けているのである。
金田一耕助は思わずそれをのぞきこもうとしたが、すると、そのとき菊江が左の肱ひじ
でかるくかれの横腹を小突いた。そして、顎あごで向こうのほうをしゃくって見せた。見
ると正面の席から蟇仙人が、おこった蟇のような顔をして、耕助の顔を睨にらんでいる。
金田一耕助はまるで、教室のなかで悪戯いたずらをしているところを教師に見つかった
小学生みたいに真まつ赧かになって、ガリガリ頭をかきまわした。しかし、すぐまた気が
ついて、あわててその手を円卓のはしにおくと、神妙らしく眼を半眼にとじた。
右の席では菊江がクスクス笑いながら、ハンケチを出して、そっと左手のうえに落とし
た。そして、それっきり彼女もまた神妙らしく眼を閉じた。
しかし、このことによって耕助は、少なくとも菊江だけは、目賀博士の妖よう術じゆつ
を信用しておらず、自分を失っていないことに気がついたのである。
蟇仙人の祝詞はしだいに急テンポになってくる。そして、それがやがて気合いをかける
ような調子になったとき、ふいに 子がふらふらと立ちあがった。耕助はおどろいてそっと
彼女の顔を見る。
子はいまや完全に催眠状態におちいっているのだ。京人形のようにととのった美しい顔
から、もとより乏しい自我のひらめきが、いまや完全に抜きとられて、その眼は恍こう惚
こつとして、遠くはるかなところを視つめている。
金田一耕助は昨日美禰子のいったことを思い出した。
母は非常に感じやすいひとです。そして、すぐひとの暗示にひっかかるんです。……
いまの 子のようすを見れば、美禰子のことばを肯定せずにはいられない。そして、それ
がいかに危険なことかと、いまさらのように懼おそれずにはいられなかった。