「先生、少しうらが破けましたが……」
「ああ、いいですよ、いいですよ」
「一彦さん、先生をお玄関までお送りして。あたしお母さまを看てあげなきゃならないか
ら。……」
美禰子はもうその場にいたたまらなくなったのだろう。くるりと踵きびすをかえすと、
肩をゆすってどんどん向こうへいってしまう。耕助がそのうしろすがたを見送っている
と、開けっぴろげた部屋のなかから、甘ったれたような菊江の鼻声がきこえてきた。
「もうお止しなさいよ。そんなに飲んでどうするの、お医者さんに叱しかられても知らな
くってよ。え、なあに。まあ、いやなひと。あなた妬やいていらっしゃるのね。なによ、
あんな風来坊みたいなやつ。……」
風来坊みたいなやつとは、どうやら耕助のことらしい。耕助は背中がムズムズするよう
な気持ちで、一彦に送られて玄関までくると、倉そう皇こうとしてその家をとび出した。
その夜、金田一耕助が大森の宿へかえりついたのは、もう十二時過ぎのことだった。
宿へかえると、かれはすぐに警視庁の等と々ど力ろき警部に電話をかけてみた。電話は
なかなか掛からなかったうえに、掛かっても、警部はいないとのことだった。
金田一耕助はがっかりした。
かれは昨日から、なんど警部に電話をかけてみたかわからないのである。椿子爵の調査
にとりかかるまえに、警部にあって、一応、天銀堂事件と子爵との関係を訊ねてみたいと
思っているのだが。……
金田一耕助は一種焦しよう躁そうの思いを抱いて離れへかえると、寝床のなかにもぐり
こんだが、なかなか寝つかれそうな状態にはならなかった。
あの狂い咲きのような椿夫人をとりまいて、あやしく回転するさまざまな顔、顔、顔、
……それからあのフルートの音と火焰太鼓のような不思議なマーク。
耕助は輾てん転てん反側しながら、やっと明け方ちかく、うとうととまどろんだかと思
うと、松月の女中にたたき起こされた。
「先生、先生、お電話ですよ」
「電話……? どちらから……?」
がばと寝床のうえにおきなおり、枕まくら許もとにおいた腕時計を見ると六時半。
「椿さんというかたから、……御婦人の声のようでした」
耕助ははっと寝床から跳び出した。そして寝間着のまま、母おも屋やのほうへ走ってい
くあいだも、心臓ががんがん鳴っていた。
電話室へとびこむと、受話器にしがみついて、
「もしもし、こちら金田一です。ええ、そう、金田一耕助。どなた、美禰子さん?」
電話の向こうから蚊かのなくような声が、かすかに細々と聞こえてくる。
「こちら美禰子です。椿美禰子です。金田一先生、すぐ来てください。とうとう起こった
んです。昨夜、とうとう……昨夜、とうとう……」
「起こったってなにが、……もしもし、もしもし、美禰子さん、起こったってなに
が……」
「先生、すぐ来てください。人殺しがあったんです。おうちのなかで……先生、あたし怖
いの、怖いの、怖いのよ。すぐ来て……」
そこへほかの声と雑音が、ガアガアまじってきたので、美禰子の声はどうしても聴きと
れなくなった。金田一耕助はたたきつけるように受話器をかけると、電話室からとび出し
ていた。
悪魔はついに笛を吹き、こうして椿家の惨劇の第一幕が、騒然として切って落とされた
のである。