「とにかく、あの女は旦だん那なの死んだのをちっとも悲しんでいませんね。いや、悲し
んでいないどころか、のうのうとしてるところがある。しかも、あの女はちっともそれを
隠そうとはしていない」
誰かが結論を下すようにいった。
間もなくお種がやってきた。
菊江のあとから現われたお種を見ると、まるでいままで烈々とかがやいていた空が、
いっぺんに薄雲に覆われたような印象をうける。彼女はさむざむと肩をすくめ、まるで掌
てのひらに抱きすくめられた小鳥のように、おどおどとふるえていた。
だからお種との一問一答は、とても菊江のようにすらすらとはいかなかった。それでも
姓名だの年齢だの、この家に仕えている年限についてはわりにすらすら答えたが、(それ
によると彼女は足かけ七年、この屋敷に住んでいるそうである)肝かん腎じんの子爵、あ
るいは子爵らしい人物を目撃したというだんになると、彼女はすっかり固くなって、返事
もしどろもどろだった。
だから、ここにはその要点だけを書き抜いておくことにしよう。
目賀先生から新宮利彦を呼んでくるようにと命じられたお種は、急いで勝手口から外へ
とび出した。あまり急いだので懐中電気を用意することさえ忘れていた。
しかし、昨夜は雲も多かったけれど、雲の向こうに月があったと見えて、庭はそれほど
暗くはなかった。それにいかに広いとはいえ、同じ邸内のことである。お種は小走りに庭
を突っ切っていった。
まえにもいったとおり、この邸内には檜ひのきや柏かしわの大木が、うっそうとして
茂っている。もっとも戦災をうけて、そのうちの相当の部分が、くろく焼けただれて立ち
枯れていたけれど、それでも多くの樹がのこっており、その下を歩くときはかなり暗かっ
た。
お種は小走りに木の間を縫うて走っていったが、ふいにぎょっとして立ちどまった。お
種はある音をきいたのである。それはごく低い、かすかな物音で、しかもすぐ途切れてし
まったけれど、彼女はそれがなんの音であるか知っていた。それはフルートの音であっ
た。
お種は空耳だろうと思いながらも、場合が場合だけに、やはり膝ひざ頭がしらがふるえ
た。
するとまた聞こえた。それはメロディーもなにもなさない、ほんの短い音そのものだっ
たが、もう間違いはなかった。それは長年彼女がききなれてきた、フルートの音にちがい
なかった。
お種は全身に水を浴びせられたような衝撃を感じたが、それでも勇気をふるって、
「誰……? 誰かそこにいるの」
と、ふるえる声で聞いてみた。
すると、四、五間はなれた下草のなかから、ふいにむくむくとひとが立ちあがった。お
種はいまにも心臓がとまりそうだった。何か叫ぼうとしたが、舌がこわばって声が出な
かった。それでも一心不乱に向こうを見ていた。いや、全身がしびれてしまって、眼をそ
らすことさえ出来なかったのだ。
暗くてよくわからなかったが、相手は中肉中背の洋服を着た男であった。その男はお種
のほうを向いたまま、手にしたものを口にあてて、かるく、短く音を立てた。
ああ、もう間違いはなかった。それはあきらかにフルートである。しかも、ちょうどそ
のとき雲が切れて、月の光がさっとその男を照らしたので。……
「そ、そ、それじゃ、お、お、お種さんは、そ、そ、その男の顔を見たんですか。は、
はっきりと……」
金田一耕助はせきこんで、はげしく吃どもった。等と々ど力ろき警部は鉛筆の尻しりを
くわえて、嚙かみくだかんばかりの勢いである。