「まあ!」
美禰子はあわててハンケチで口をおさえて尻しりごみする。それから呆あきれたような
眼で耕助の顔を見ながら、
「いやな先生」
「あっはっは、いや、ご、ご、ごめん、す、す、すると、ド、ド、ド、ドイツ向けの機械
はYとZのキイがあべこべについているというんですね」
耕助はひどく吃どもって、それからあわてて、ちゃぶ台のうえの茶をがぶりと飲んだ。
それから臍せい下か丹たん田でんにぐっと力をこめて、それでどうやら、吃ることと、頭
のうえの雀の巣を搔きまわす運動がとまったようだ。美禰子はほっと胸を撫なでおろし
た。
「ええ。そうなんですって。あたし、ドイツ語はよく知りませんけれど。たぶんYとZを
使う頻度が、英語とはあべこべになっているんでしょうね。それで、同じ機械でもドイツ
向けの輸出用には、YとZのキイを逆につけたのがあるんですって」
「なるほど、なるほど。ところで、そういう機械が日本にもあるでしょうかねえ」
「ええ、ドイツ相手の商会などでは、そういう機械を使っていたところがあるそうです」
「すると、こういうことになりますね。ドイツ向けのそういう機械でタイプを習って、眼
をつむってても打てるくらいに熟練した人物が、暗がりかなんかで、ついうっかりとお宅
の機械を使うとYとZをあべこべに打つわけですね」
「うちの機械……? 先生。何かうちにあるタイプライターが……」
「いやいや。それはいずれお話ししますがね」
金田一耕助はふと、椿つばき家けの庭のおくにある、あの薄暗い防空壕ごうを思い出
す。そして、そこでYとZのキイが逆についているのも気がつかずに、タイプを打ってい
る人物を想像すると、何かしら胸の底が沸わき立つようであった。少なくともそこでそい
つは、ひとつの大きな失敗をやらかしたわけなのだ。
「いや、どうも有難うございました。このことは非常に大きな参考になりましたよ。とこ
ろで、何かほかにお話があるということでしたが……」
「ええ。……」
真正面から金田一耕助を視みすえた美禰子の瞳が、ふいにベソを搔くようにふるえた。
「あたし、たいへんな間違いをしておりまして……でも、それが間違いだってことがわ
かってから、かえって、いっそうわけがわからなくなってしまって……」
と、美禰子がハンドバッグのなかから取り出したのは、一通の封筒だった。
「先生、これはこのあいだもお眼にかけましたけれど、もう一度読んでください」
美禰子の取り出した封筒というのは、はじめて彼女がここに来たとき、金田一耕助に見
せた、椿子し爵しやくの遺書である。この遺書の文面は、まえにも掲げておいたが、もう
いちどここに出しておこう。
美禰子よ。
父を責めないでくれ。父はこれ以上の屈辱、不名誉に耐えていくことは出来ないのだ。由
緒ある椿の家名も、これが暴露されると、泥沼のなかへ落ちてしまう。ああ、悪魔が来り
て笛を吹く。父はとてもその日まで生きていることは出来ない。
美禰子よ、父を許せ。
「これが、どうかしたんですか」
金田一耕助は不思議そうに美禰子の顔を覗のぞいていたが、急に気がついたように、
「もしや、これが贋にせ手紙だと……」
「いいえ、いいえ、そうではございませんの。それはたしかに父の筆ひつ蹟せきにちがい
ございません。でも、先生、その遺書には日付が書いてございませんでしょう。それが間
違いのもとだったんですの」
「と、いうと……」
「先生、このまえにもお話ししましたけれど、あたしがこの遺書を発見したのは、父が失
しつ踪そうしてから、ずっとのちのことでした。この夏お蔵の書庫へ入って、御本を整理
していると、本のあいだからそれが落ちてきたんです」
「ええ、そのことならば、このあいだもお伺いしました」
「その本というのはこれなんですけれど……」
美禰子がハンドバッグから取り出したのは、戦争前にT書店から発行された翻訳書、
ゲーテの『ウィルヘルム・マイステルの修業時代』の下巻であった。