「ああ、いや……」
出川刑事があわてて坐すわり直すのを、じろりと見ながら、
「なんですか。いま番頭にききましたら、また椿つばきさんのことでお調べやそう
で……」
と、そういうおかみの顔色には、ありありと迷惑そうな色がうかがわれる。ちかごろは
どんな事件にしろ、名前が出るのをよろこぶふうがあるのに、この宿ばかりはちがうらし
い。金田一耕助はこいつはちょっと手ごわいぞと思ったが、出川刑事もそれに気がついた
らしく、
「ああ、そのことだがね。たびたびのことで御迷惑だとは思うが……」
「いえ、べつに迷惑やいうわけではおませんが、あのことならもうあれで、解決がついて
たのやと思てましたのに。……」
「いや、われわれのほうでもそう思っていたんだが、こんどまたああいう事件が起こった
のでね。おかみさんも知ってるだろう。四、五日まえに東京で起こった事件。……」
「へえ、それなら新聞で読んでますけれど。……何しろえらい騒ぎで。……」
「そうだろう。だからもう一度調査しなおす必要が起こったのでね」
「でも、あのことなら、いまも申しましたとおり、あのときちゃんとお調べがついてる筈
はずやと思いますけれど。あれ以上のことはわたしらも申し上げようがありませんから。
……」
と、おかみがなかなか警戒のいろを解かないので、金田一耕助がそばから口を出した。
「お話し中だがね。おかみさん」
「はあ」
「こんどこちらが出張して来られたのは、なにもこのうちを調べようというわけじゃない
んですよ」
「はあ、と、すると……?」
「このまえ刑事さんが調べに来られたのは、一月十五日前後に椿子爵がこちらにいられた
かどうか、それさえ調べればよかったんです。そして、そのことはいまもおかみさんがい
うとおり、ちゃんと調べがついている。だから、あのときはそれで調査を打ちきったんで
すが、こんどまたああいう事件が起こったでしょう。それで、また調査しなおす必要が起
こったというのは、あのときこちらに泊まったのが、椿子爵だったかどうかということ
じゃなく、椿子爵がこちらに泊まって、いったい何をしていられたか、いや、なんのため
に、この方面へやって来られたか……と、いうことを調査する必要が起こったんです。い
まもいうとおり、このまえはそこまで調査しなかった。いや、する必要がなかったんです
ね」
「ああ、なるほど。それでよくわかりました」
おかみもようやく納得したらしく、
「そんならなにも、うちが直接関係があるというわけでもおませんのですね」
「そうです、そうです。だからわれわれはなにも、おたくに御迷惑をおかけしなくてもよ
かったわけです。ほかの宿へいってもよかったのです。要はこの須磨寺を中心として、椿
子爵があのときどういう行動をとられたか、それさえわかればいいんですからね。しか
し、同じことなら御縁のある、こちらさんへ御厄介になったほうが、なにかにつけて便利
だと思ったものですから。……」
金田一耕助という男は、風ふう采さいはあがらないけれど、妙にひとを惹ひきつけると
ころがあり、説得力を持っている。かれがもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、どもりど
もり説明するのを聞くと、おかみもしだいに釣りこまれて、
「そらそうだす。そういうことなら、とやかくいうことはおまへん。わたしはまた、あの
とき申し上げたことに、なにかお疑いでもあるのか知らん思いまして。……」
「と、とんでもない」
「それにまた、あんな物静かな、お上品なかたが、こともあろうに天銀堂事件みたいな、
恐ろしい事件の容疑者にされるなんて、あんまりお気の毒で、わたしら義憤みたいなもん
感じとったんだっせ」
金田一耕助と出川刑事は思わず顔を見あわせる。