おこまのことなら、そのとき出た一時金で話はすんでいるはずである。のちのちまで、
ゆすられるようなヘマを玉虫伯爵のような人物がやるはずがない。もし、小夜子の養育費
として金を出していたとしたら、玉虫伯爵はおそらくその金が、確実におこまの手に渡る
ような方法を講じ、また、じっさいに小夜子の養育費として使用されているかどうか監視
したにちがいない。途中で植辰に着服されるようなヘマをやる玉虫伯爵ではない。第一、
養育費を出すほど責任を感じているとすれば、はじめから、おこまの身のふりかたに、
もっと親切な配慮がなされたはずである。じぶんの手でしかるべき配偶者をさがし、おこ
まを片付けるというようなことも、玉虫伯爵ならばそれほど困難なことではなかったであ
ろう。
「とにかく、植辰が玉虫伯爵をゆすっていたらしいというのが、ぼくには合点がいかんの
です。伯爵は植木屋の親方風ふ情ぜいにゆすられるような人物ではない。ゆすられるとす
れば、よほど大きな弱点が、伯爵のほうになければならんはずですがねえ」
「なるほど」
これには出川刑事も異存はなかった。
「お小夜の一件だけならば、上流社会にはありがちのことですから、それをタネにいつま
でも、ゆすられるというのはおかしいですね」
「そうです。そうです。ことに相手が玉虫伯爵ときてはね。しかし、問題は植辰がほんと
うに伯爵をゆすっていたかどうかということですね。おかみの話はまた聴きだから、これ
を根拠にしては話がちがうかも知れない。そんなところをもういちど、よく確かめておい
たらと思うんですがねえ」
「ようござんす。それじゃ、明日もういちど植松なり、板いた宿やどの連中に当たって、
よく聞いて見ましょう」
なるほど、おすみのいったとおり、午ひるちかくなると雨もよほど小降りになり、空も
だいぶん明るくなって来た。さっきまで薄墨色にけむっていた庭の樹木も、ヴェールをは
がされたように、すがたを現わし、小鳥がその枝へきてにぎやかに囀さえずりはじめた。
その代わり気温はかえってさがったらしく、宿の浴衣ゆかたとどてらだけでは、肌寒さを
おぼえたので、耕助はシャツを着こんだついでに、着物に着かえ袴はかまをつけた。
十一時半ごろ出川刑事が、濡ぬれそぼった姿でかえってきた。
「やあ、どうも御苦労様。雨のなかを大変だったでしょう。ぼくはすっかり寝坊をし
ちゃって。……」
「いや、番頭さんは、まだかえらないそうですね」
「ええ、きっと探すのに骨を折っているのでしょう。ときに、あなたのほうは……?」
「金田一先生、それについて、ちょっと妙なことがあるんですが……」
出川刑事はぬれた上着や靴下を縁側に干し、それから耕助のまえへきてあぐらをかいた
が、なんとなく不安そうな眼のいろだった。
「妙なことって……」
耕助もついつりこまれて、どきりとしたような眼の色になる。
「昨夜、お話があったもんだから、わたしゃあまずいちばんに植松のところへいったんで
す。そこで話をきいてから板宿へまわりました。例のゆすりの件をたしかめにいったんで
すが、その点はもう間違いはないようですね。ゆすっていたかどうかは知らんが、植辰は
たしかに金穴を持っていたらしいと、これは植松も板宿の連中もみんな口が合ってます。
よく博ばく奕ちにまけてすってんてんになったときなど、債権者にむかって、ぐずぐずい
うな、おれは東京に金の生なる木を持っているんだと威張ってたそうですが、果たしてそ
れから四、五日もすがたを消すと、どこからか金をつかんできて、きれいに博奕の負けを
払ったそうです。板宿の連中などは、いつも、よい御身分だと羨うらやんでいたそうです
が、さて、その金穴がどこの誰かということになると、誰も知らないんですね。ただ植松
だけは以前から、玉虫伯爵ではないかと、うすうす感づいていたというんです」
「しかし、植辰はどういう理由で玉虫伯爵から。……」
「それはお小夜ちゃんのことにきまっている。それよりほかに、植辰が玉虫の御前から、
金を引き出す理由はないはずだと、植松もそれ以上のことは知らないようです」
金田一耕助は考えて、
「それで植松はお小夜の父についてはどういってるんです。新宮子爵か玉虫伯爵か……」
「いや、それについては植松も知らないそうです。玉虫伯爵の別荘へ手伝いにいっている
あいだに、手て籠ごめ同様に自由にされて、お小夜を孕はらんだんだということは聞いて
いるが、相手が誰かということは、植辰もおこまも絶対にいわなかったそうです。源助が
おこまの髪の毛をとって引きずりまわすというようなことがあっても、おこまはお小夜の
父について絶対に口をわらなかったそうで、剛ごう情じようというのか、慎しみ深いとい
うのか、おこまはその秘密を守りとおしてきたんですね」
耕助はまた黙って考えていたが、
「それで、あなたの妙なことというのは……?」
「さあ、それなんです」
と、出川刑事は膝ひざをすすめて、
「植松のところから板宿へいく途中、道順ですから、玉虫伯爵の別荘の跡というのを見に
いったんです。お話のあった石いし燈どう籠ろうを見ておこうと思いましてね。ところ
が、その石燈籠の文字というのが消えているんです」
「消えている……?」
耕助は思わず大きく眼を見張った。