「その晩、山越えをしたものはだれもいないんですか」
「いや、それがひとりあるんです。北神九十郎ちゅうて、これまた満州からの引揚者なん
ですがね。その男が夜の十二時過ぎ、山越えをしてかえってきたちゅうんです」
「北神九十郎というと浩一郎の家と親戚ででも……」
「さあ、それはいずれ株内じゃありましょうが、そうちかしい親戚ちゅうんでもなさそう
です。それにこの男、三十年も満州にいたそうですからな」
「それで、その男、途中でなにか気がついたことでも……?」
「いや、べつに、なにも気がつかなんだというとります。もっとも、ひどく酒に酔うてい
たそうですから、途中でなにかあったとしても気がつかなんだでしょうな」
「それで西神の康雄や、北神の浩一郎という青年は、その晩、どうしていたんです」
「西神家の康雄のほうは、その晩、隣村の親戚へよばれていって、ぐでんぐでんに酔っぱ
らったあげく、そこに泊まっているんです。ところが北神家の浩一郎のほうは、その晩、
祭りにも行かず、一時ごろまでむこうに見える水車小屋で、米を搗ついていたそうです」
磯川警部の指さしたのは、湖水のいちばん奥まったところである。そこに湖水へながれ
こむ渓流があり、その渓流のそばにこけら葺ぶきの水車小屋がたっている。山越えで隣村
へ行くには、その水車小屋のすぐ上手にかかっている橋をわたっていくのである。
「あの水車小屋は村の共有になっていて、毎日順繰りに使うことになっているんですね。
その晩は北神家の番ではなかったが、番にあたっていたもんが、隣村の祭りへ行きたい
ちゅうので、番を北神家へゆずったんですな。なにしろ、このへんじゃ水田がすくないも
んだから、どのうちも米は不足する。それで、早場米をつくって、一日もはやく搗いて食
おうというわけで、浩一郎も精を出したんですな。いや、昔ならば北神家のせがれともあ
ろうもんが、米搗きなんどすることはなかったんでしょうが、これも時世時節で、作男な
んかもいなくなってしまいましたからな」
金田一耕助は考えぶかい眼つきになって、
「その浩一郎という青年はどうなんですか。祭りなどというにぎやかなことはきらいで、
ひとり黙々として米でも搗いていたいという青年なんですか」
「いや、ところがそうでもないんですな。なにかことがあると、まっさきにやるちゅうふ
うで、ことにのどがよくて歌がうまいんだそうです。それですから、隣村の祭りののど自
慢にも、ぜひ出てくれちゅう招待を、どういうわけかことわって、水車で米を搗いてた
ちゅうんで、そこんところがちょっと……陰性といえば、振られたほうの康雄のほうが、
どこか陰性なところのある青年ですがね」
金田一耕助は警部の顔を見つめながら、
「それはちと妙ですね。そういう青年が年に一度の祭りの招待をことわるなんて……」
「ほんとうにそうです。この浩一郎という青年についちゃ、ほかにも妙なことがあるんで
すが、しかし、その晩、水車小屋にいたちゅうことはたしかなんで。さっきいった九十郎
という男ですね。その男は十二時過ぎに山越えでかえってきたが、山越えでかえってくる
と、ほら、あの橋をわたって水車のそばを通ることになるんです。そのとき、浩一郎が小
屋のなかで米搗きをしていたんで、ふたこと三こと、言葉をかわしているんです」
金田一耕助はなにかしら、また気になるふうで湖畔のほうへ眼をやりながら、
「なるほど。ところで、浩一郎について妙なことというのは……?」
「それがどうもおかしいんです。とにかく、そうして娘ひとり突然姿を消したもんだか
ら、この村はいうにおよばず、隣村なんかも大騒ぎでさあね。御子柴のうちじゃ青くなっ
て、あちこち探してまわるやら、八はつ卦け見みに見てもらうやら、村は村で青年団が山
狩りするやら、まあ、いろいろやったんですが、すると祭りの日からなか一日おいて五日
の朝、由紀子の弟の啓吉というのが、自宅のうらの庭で妙なものをひろった。浩一郎から
由紀子にあてた手紙なんですがね」
「で、その内容は……?」
「三日の晩、水車小屋で待っているから、かっきり九時にやってきてくれ。式をあげるま
えにぜひ話しておきたいことがあるから。……ただし、このことはぜったいにだれにもさ
とられぬように……と、だいたいそんな意味なんですがな」
「それじゃ、警部さん、話は簡単じゃありませんか。ぜったいに、だれにもさとられぬよ
うにという浩一郎の指令なので、由紀子はきっと人目を避けて、山越しにこの村へかえっ
てきたんじゃないんですか」