蜃気楼島の情熱
一
「いったい、アメリカみたいな国からかえってきて、都会に住むならともかく、こういう
田舎へひっこんだ人間で、アメリカ在住当時の生活習慣をまもっていくやつはほとんどな
いな。みんな日本趣味、それも極端な日本趣味に還元してしまうようだな」
「ああ、そう、そういうことはいえますな。アメリカのああいう、劃かく一いつ的てきな
缶詰文化の国からかえってくると、この国の非能率的なところが、かえって大きな魅力に
なるんですね」
「つまり束縛から解放されたような気になるのかな。耕さんのその和服主義なども、その
現われのひとつだろうが……」
「いやあ、ぼくの話はよしましょう」
金田一耕助は、雀すずめの巣のようなもじゃもじゃ頭を、五本の指でゆるく搔かきまわ
しながら、照れたようなうす笑いをうかべた。
「あっはっは、しかし、あんたの和服主義も久しいもんだな。もう何十年来というところ
だが、何か主義とか主張とかいうようなものがあるのかな」
「何十年来はひどいですよ。おじさん、これでもまだぼくは若いんですからね。うっふっ
ふ」
金田一耕助はふくみ笑いをして、
「べつに主義もへちまもありませんがね。このほうが便利ですからね。第一、洋服だとズ
ボンをはいてバンドでとめる。ワイシャツを着てネクタイをしめる。靴下をはいてガー
ターでとめる。靴をはいて……それだって靴べらってものがいりまさあ。それから紐ひも
をむすぶ。考えただけだって、頭がいたくなりそうな手数をかけて支度をしながら、さ
て、ひとさまのうちを訪問して、そのままスーッとあがれるうちってめったにありません
からね。まず靴の紐をといて靴をぬぎ、それからやっと上へあがるということになる。か
えるときにはどうかというと、靴べらはどこへやったと、あちこちポケットをさがしま
わったあげく、結局、うちへ忘れてきたことに気がつき、やむなくそのうちの備えつけ
の、いやに長っ細いへなへなした靴べらを借用したとたん、ポキッと折っちまう。大いに
面目玉を失墜したあげく、お尻しりをおったてて靴の紐をむすんでるうちにまえへつんの
める」
「あっはっは」
「ことにおじさんみたいに、腹のつん出たひとが、フーフーいいながら靴の紐を結んでる
ところを見ると気の毒になりますよ。今朝だって、式台に泥靴をかけておばさんに叱しか
られたじゃありませんか」
「うっふっふ」
「あれだって、じぶんのうちだからこそ、亭主関白の位でああいうことが出来るんだが、
ひとさまのおうちじゃ、いかにおじさんみたいなずうずうしいひとでもやれんでしょう。
結局、まえへつんのめって脳のう溢いつ血けつを起こすということになる。これをもって
しても、日本における洋服生活というやつが、いかに非能率的であり、かつ非衛生的だと
いうことがわかるじゃありませんか。おじさんなんぞもいまのうちに考えなおしたほうが
いいですよ」
金田一耕助がけろりとすましているのに反して、いや、耕助がすましているだけにか
えっておかしく、相手は腹をかかえてげらげら笑っている。
「わかった、わかった。それじゃ、耕さんが和服で押し通しているのは、脳溢血がこわい
からだね」
「そうですよ。この若さでよいよいになっちゃみじめですからね。おじさん、この蟹か
に、うまいですよ。食べてごらんなさい」
金田一耕助の相手は眼に涙をためてまだ笑っている。それでいて耕助を見る眼つきにこ
のうえもない愛情がこもっている。