蝙蝠と蛞蝓
一
およそ世の中になにがいやだといって、蝙蝠こうもりほどいやなやつはない。昼のあい
だは暗い洞穴の奥や、じめじめした森の木こ蔭かげや、土蔵の軒下にぶらんぶらんとぶら
下がっていて、夕方になると、ひらひら飛び出してくる。
第一、あの飛びかたからして気に食わん。ひとを小馬鹿にしたように、あっちへひらひ
ら、こっちへひらひら、そうかと思うとだしぬけに、高いところから舞いおりてきて、ひ
との頰っぺたを撫なでていく。子供がわらじを投げつけると、いかにもひっかかったよう
な顔をして、途中までおりてくるが、いざとなると、ヘン、お気の毒さまといわぬばかり
に、わらじを見捨てて飛んでいく。いまいましいったらない。ヨーロッパの伝説による
と、深夜墓場を抜け出して、人の生血を吸う吸血鬼というやつは、蝙蝠の形をしているそ
うだ。またインドかアフリカにいる白蝙蝠というやつは、実際に動物の生血を吸うそう
だ。そういう特別なやつはべつとしても、とにかく、これほど虫の好かん動物はない。い
つかおれは夕方の町を散歩していて、こいつに頰っぺたを撫でられて、きもを冷やしたこ
とがある。それ以来ますます嫌いになった。
ところでおれがなぜこんなことを書き出したかというと、ちかごろ隣の部屋へ引っ越し
てきた男というのが、おれの嫌いな蝙蝠にそっくりなんだ。べつにつらが似ているわけ
じゃないが、見た感じがだ。なんとなくあのいやな動物を連想させるのだ。このあいだも
おれがアパートの廊下を散歩していたら、だしぬけに暗い物蔭からふらふらと出てきて、
すうっとおれのそばへ寄ってきやァがった。おれはぎゃっと叫んでその場に立ち竦すくん
だが、するとやつめ、フフフと鼻のうえに皺しわを寄せ、失礼ともいわずに、そのままふ
らふらむこうへいってしまやァがった。いま考えてもいまいましいったらない。
そもそも──と、ひらきなおるほどの男じゃないが、そいつの名前は金きん田だ一いち耕
こう助すけというらしい。わりに上手な字で書いた名札がドアのうえに貼はりつけてあ
る。年と齢しはおれより七つか八つ年うえの、三十三、四というところらしいが、いつも
髪をもじゃもじゃにして、冴さえぬ顔色をしている。それにおかしいのは、こんな時代に
もかかわらず、いつも和服で押しとおしている。ところがその和服たるやだ。襟えり垢あ
かまみれの皺しわ苦く茶ちやで、なにしろああ敵かたきのように着られちゃ、どんな筋の
とおったもんでも耐たまるまいと、おれはひそかに着物に同情している。しかし、ご当人
はいっこう平気なのか、それともそういう取りつくろわぬ服装をてらっているのか、外へ
出るときには、垢まみれの皺苦茶のうえに、袴はかまを一着に及ぶんだから、いよいよ
もって鼻持ちがならん。その袴たるや──と、いまさらいうだけ野暮だろう。いまどき、場
末の芝居小屋の作者部屋の見習いにもあんなのはいない。もっとも、小柄で貧相な風采だ
から、おめかしをしてもはじまらんことを自分でもちゃんと知っているのかもしれん。生
涯うだつのあがらぬ人相だが、そこが蝙蝠の蝙蝠たるゆえんかもしれん。はじめおれは戦
災者かと思っていたが、べらぼうに本をたくさん持っているところを見ると、そうでもな
いらしい。アパートのお加か代よちゃんの話によると、昼のうちは寝そべって、本ばかり
読んでいるが、夕方になるとふらふら出かけていくそうだ。いよいよもって蝙蝠である。
「いったい、どんな本を読んでいるんだい」
おれが訊たずねると、お加代ちゃんはかわいい眉まゆに皺しわを寄せて、
「それがねえ、気味が悪いのよ。死人だの骸骨だの、それから人殺しの場面だの、そんな
写真ばかり出てる本なのよ。このあいだ私が掃除に入ったら、首くび吊つり男の写真が机
のうえにひろげてあったからゾーッとしたわ」
フウンとおれはしかつめらしく顎あごを撫でてみせたが、心中では大変なやつが隣へき
たもんだと、内心少なからず気味悪かった。職業を訊くとお加代ちゃんも知らんという。
「なんでも伯父さんがまえにお世話になったことがあるんですって。それでとても信用し
てんのよ。でも、あんな死人の写真ばかり見てる人、気味が悪いわねえ、湯ゆ浅あささ
ん」
お加代ちゃんもおれと同意見だったので嬉うれしかった。
それにしても、隣の男のことがこんなに気にかかるなんて、おれもよっぽどどうかして
いる。おれは戦争前からこのアパートにいるが、いままでどの部屋にどんなやつがいる
か、そんなことが気になったためしはない。むろん、つきあいなんかひとりもない。もっ
とも、三階の、おれの真上の部屋にいる山やま名な紅こう吉きちだけはべつだ。その紅吉
が、このあいだ、心配そうにおれの顔を見ながらに、こんなことをいった。