二
きょう、おれは学校からの帰りがけに、素晴らしいことを思いついた。そこで晩飯を
食ってしまうと、さっそく机に向かって原稿紙をひろげ、まず、
蝙蝠男──
と、題を書いてみた。だが、どうも気に食わんので、もうひとつそのそばに、
人間蝙蝠──
と、書き添えてみた。そしてしばらく二つの題を見くらべていたが、結局どっちの題も
気に入らん。第一、こんな題をつけると、江え戸ど川がわ乱らん歩ぽの真似だと嗤わらわ
れる。そこで二つとも消してしまうと、あらためてそばに、
蝙蝠──
と、書いた。これがいい。これがいい。このほうがよっぽどあっさりしている。さて、
題がきまったので、いよいよ書き出しにかかる。
ええ──と、蝙蝠男の耕助は──なんだ、馬鹿に語ご呂ろがいいじゃないか。蝙蝠男の耕
助か……ウフフ、面白い、面白い。だが──その後なんとつづけたらいいのかな。いや、そ
れより蝙蝠男の耕助に、いったいなにをやらせようというんだ。──おれはしばらく原稿紙
をにらんでいたが、そのうちに頭がいたくなったので、万年筆を投げ出して、畳の上にふ
んぞり返った。実はきょうおれは、学校の帰りに、蝙蝠男の耕助をモデルにして、小説を
書いてやろうと思いついたのだ。その小説のなかで、あいつのことをうんと悪く書いてや
る。日頃のうっぷんを存分晴らす。そうすれば、溜りゆう飲いんがさがって、このいらい
らとした気分が、いくらかおさまりやせんかと思ったのだ。
しかし、いよいよ筆をとってみると、なかなか生なま易やさしいことで書けるのでない
ことが判明した。第一、おれはまだ、蝙蝠男の耕助に、なにをやらせようとするのか、そ
れさえ考えていなかった。まず、それからきめてかからねばお話にならん。そこでおれは
起き直ると、書こうとすることを箇条書きにしてみる。
一、蝙蝠男の耕助は気味の悪い人物である。
二、蝙蝠男の耕助は人を殺すのである。
と、そこまで書いて、おれは待てよと考え直した。耕助に人殺しをさせるのは平凡であ
る。そんなことで溜飲はさがらん。そこで筆をとって次のごとく書きあらためた。
二、蝙蝠男の耕助は人を殺すのではない。他人の演じた殺人の罪をおわされて、あわれ死刑
となるのである。
うまい、うまい、このほうがよろしい。このほうがはるかに深刻である。身におぼえの
ない殺人の嫌疑に、蒼あおくなって周しゆう章しよう狼ろう狽ばいしている蝙蝠男の耕助
の顔を考えると、おれはやっと溜飲がさがりそうな気がした。ざまァ見ろだ。さて──と、
おれはまた筆をとって、
三、殺されるのは女である。女というのはお加代である。
と、いっきに書いたが、書いてしまってから、おれはどきっとして、あわててその項を
塗り消した。一本の線では心配なので、二本も三本も棒をひいた。おれはよっぽどどうか
している。お加代を殺すなんて鶴亀鶴亀、あの子はおれに好意を持っている。いや、ちか
ごろ山名紅吉が移ってきてからは、少し眼移りがしているらしいが、元来、あの子はおれ
のものである、と、おれは心にきめとる。それにあの子がおらんと、このアパートは一日
もたちゆかん。あの子はここの経営者、剣突剣十郎の姪めいだが、おやじの剣十郎はどう
いうものか、とかくちかごろ病いがちである。鬼のカクランで、しょっちゅう床について
いる。あの子がおらんと、アパート閉鎖ということにならぬとも限らん。あの子はまあ生
かしておくことにしよう。
そこでおれはあらためて、どこかに殺されても惜しくないような女はおらんかと物色し
たが、するとすぐ思いついたのが裏の蛞蝓女。おれははたと膝ひざをたたいた。そうだ、
そうだ、あの女に限る。第一、あいつ自身、死にたがって、毎日ほど書置きを書いてやが
るじゃないか。あの女を殺すのは悪事ではなくて功く徳どくである。そこでおれはあらた
めてこう書いた。
三、殺されるのは女である。女というのは蛞蝓女のお繁しげである。
こうきまるとおれは俄が然ぜん愉快になった。一石二鳥とはこのことだ。蝙蝠男が隣へ
引っ越してくるまでは、おれの関心の的はもっぱらこのお繁だったが、いまや一挙にして
ふたりを粉砕することができる。名案、名案。
ところで小説というものは、いきなり主人公が顔を出しても面白くないから、まず殺さ
れるお繁のことから書いてみよう。お繁のことならいくらでも書けそうな気がする。そこ
でおれはしばし沈思黙考のすえ、あらためて題を、
蝙蝠と蛞蝓──
と、書いた。それから筆に脂が乗って、いっきにつぎのごとく書きとばした。