四
おれはいっきにここまで書いて筆をおいた。これからいよいよ佳か境きように入るとこ
ろだが、そういっぺんには書けん。ローマは一日にして成らず、傑作は一夜漬けではでき
ん。それに第一、いかにして蛞蝓を殺すか、そしてまた、いかなるトリックを用いて、蝙
蝠に罪をきせるか、それからして考えねばならん。それはまあ、いずれゆっくり想を練る
ことにして、──と、おれはひとまず筆をおさめて寝ることにした。その晩おれは久しぶり
によく眠った。
ところが翌日になると、おれはすっかり小説に興味を失ってしまった。昨夜書いたとこ
ろを読み返してみたが、阿あ房ほらしくておかしくてお話にならん。こんなものをなぜ書
いたのか、どうして昨夜は、これが一大傑作と思われたのか、自分で自分の神経がわから
ん。そこでおれは本箱のなかに原稿を突っ込んでしまうと、きれいさっぱりあとを書くこ
とを諦あきらめた。諦めたのみならず、そんなものを書いたことさえ忘れていた。
ところが、──である。半月ほどたって大変なことが起こったのである。
おれはその日も、いつもと同じように学校へいって、四時ごろアパートへ帰ってきた
が、見ると、表に人相の悪い奴がふたり立っていた。おれがなかへ入ると、そいつら妙な
眼をして、ギロリとおれの顔を睨にらみやアがった。虫の好かん奴だ。おれはしかし、べ
つに気にもとめんとアパートの玄関へ入ったが、するとそこにお加代ちゃんと紅吉のやつ
が立っていた。ふたりともおれの顔を見ると、おびえたように、二、三歩あとじさりし
た。おれがなにかいおうとすると、お加代ちゃんは急に真っ青になって、バタバタむこう
へ逃げてしまった。紅吉のやつもこわばったような顔を、おれの視線からそむけると、こ
れまたお加代ちゃんのあとを追っていきやアがった。
どうも変なぐあいである。
しかし、おれはまだ気がつかずに、そのまま自分の部屋へ帰ってきたが、すると、さっ
き表に立っていた人相の悪いふたりが、すうっとおれのあとから入ってきやアがった。
「な、なんだい、君たちゃア──」
「湯浅順平というのは君ですか」
こっちの問いには答えずに、むこうから切り出しアがった。いやに落ち着いたやつだ。
「湯浅順平はおれだが、いったい君たちゃア──」
「君はこれに見憶えがありますか」
相手はまた、おれの質問を無視すると、手に持っていた風呂敷包みを開いた。風呂敷の
なかから出てきたのは、べっとりと血を吸った抜身の短刀だが、おれはそれを見るとびっ
くりして眼を見はった。
「なんだ、どうしたんだ、君たちゃア。その短刀はおれのもんだが、いつのまに持ち出し
たんだ。そしてその血はどうしたんだ」
「むこうにかかっているのは君の寝間着だね。あの袖についているしみはいったいどうし
たんだね」
相手は三度おれの質問を無視しゃアがった。しかし、おれはもう相手の無礼をとがめる
余裕もなかった。重ねがさね妙なことをいうと、後ろの柱にかかっている、寝間着に眼を
やったが、そのとたんおれの体のあらゆる筋肉が、完全にストライキを起こしてしまっ
た。白いタオルの寝間着の右袖が、ぐっしょりと赤黒い血で染まっているのである。
「この原稿は、──」
と、人相の悪い男がおれの顔を見ながらまたいった。
「たしかに君が書いたものだろうね」
「わ、わ、わ、わ、わ!」
おれはなにかいおうとしたが、舌が痙けい攣れんして言葉が出ない。人相の悪いふたり
の男は、顔見合わせてにやりと笑った。
「河こう野の君、そいつの指紋をとってみたまえ」
おれは抵抗しようと試みたが、何しろ全身の筋肉が、完全におれの命令をボイコットし
ているのだからどうにもならん。不ふ甲が斐いなくもまんまと指紋をとられてしまった。
人相の悪いやつはその指紋を、別の指紋と比較していたが、やがて薄気味悪い顔をして頷
うなずき合った。
「やっぱりそうです。まちがいありません」
「い、い、いったい、君たちゃア」
突然、おれの舌がストライキを中止して、おれの命令に服従するようになった。そこで
ふたたびスト態勢に入らぬうちにと、おれは大急ぎでこれだけのことを怒鳴った。
「き、き、君たちゃなんだ。勝手にひとの部屋に闖ちん入にゆうして、いつのまにやらお
れの原稿を探し出したり、そ、そ、それは新憲法の精神に反するぞ」
人相の悪い男はにやりと笑った。そしてこんなことをいった。
「まあ、いい。そんなことは警察へきてからいえ」
「け、け、警察──? おれがなぜ警察へいくのだ。おれがなにをしたというんだ」
「君はな、昨夜、その原稿に書いたことを実行したのだ。君のいわゆる蛞蝓を、この短刀
で刺殺したのだ。さて、お繁を殺したあとで、君は金魚鉢で手を洗った。そのことは、金
魚鉢の水が赤く染まっているのですぐわかるんだ。ところが、君はそのとき、ひとつ大お
お縮しく尻じりを演じた。金魚鉢の縁をうっかり握ったので、そこに君の指紋が残ったの
だ。なあ、わかったか。その短刀は、だれかが盗んだのだと言い訳することができるかも
しれん、また、寝間着の血痕にも、もっともらしい口実をつけることができるかもしれ
ぬ。しかし、金魚鉢に残った指紋ばかりは、言い抜けする言葉はあるまい。あるか」
なかった。第一、おれはお繁の家の金魚鉢になど、絶対にさわった覚えはないのだか
ら。
「よし、それじゃ素直に警察へついてきたまえ」
人相の悪い男が左右からおれの手をとった。おれは声なき悲鳴をあげるとともに、首を
抜かれたように、ぐにゃぐにゃその場にへたばってしまった。