夢遊病者……?
金田一耕助は職業柄、夢遊病者に関する事件を、いままでに扱ったことも二、三度あ
る。なかには夢遊病者をてらった事件さえもあったのだが。……
しかし、じっさいに夢中遊行のその現場を、これほどまざまざと目撃したのはこれがは
じめてである。金田一耕助は廁の窓からのりだすようにして、月光のなかをいくこの異様
な女のすがたを見まもっていた。
女は左手のほうから現れたかとおもうと、廁から五、六間離れたところを横切って、宿
の裏手から谿流のほうへおりていった。あいかわらず雲を踏むようなひょうひょうたる足
どりで、磧かわらの石ころづたいに下流のほうへ姿を消していった。
彼女のいくてには稚ち児ごが淵ふちという、ふかい淵があるはずなのだが。……
女のうしろ姿が見えなくなると、金田一耕助はふっとわれにかえった。気がつくと全身
がかるく汗ばんでいる。その汗が冷えるにしたがって、秋の夜更けの冷気が身にしみわ
たって、金田一耕助はおもわず身ぶるいをした。
このことを宿のものに知らせるべきかどうか。……
金田一耕助はちょっと迷ったが、けっきょく黙っていようと考えた。他人の秘事に立ち
いることを懼おそれたのだ。
若い女のこういう奇病を騒ぎ立てられるほど、当人にとっても身寄りのものにとって
も、迷惑なことはないだろうと考えたのと、もうひとつには、夢遊病者というものに、案
外、怪け我がのないものだということをしっていたからである。
だから、それから間もなくじぶんの部屋へかえってきた金田一耕助は、となりに寝てい
る磯川警部を起そうともしなかった。そのまま枕に頭をつけて、まもなくうとうとしはじ
めていたのだが。……
こういうふうに書いてくると、金田一耕助というこの男が、いかにも冷淡で、不人情な
人間のように思われるかもしれないが、かならずしもそうでないことは、諸君もよくしっ
ているはずである。
金田一耕助のように長いあいだ、いっぷう変った特殊な職業に従事している人物にとっ
ては、人間の生命だの運命だのという問題に関しても、おのずから常人とちがった感情が
あるのもやむをえまい。
それに金田一耕助はそのとき事件に食傷気味でもあったのだ。
東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきたのが岡山
だった。金田一耕助と岡山県との関係は、かれの探たん偵てい譚たんをお読みのかたはご
存じと思うが、金田一耕助はこの土地のあたたかい人情風俗がたいへん気にいっているの
である。
だから、東京の俗塵をさけた金田一耕助が、しばしの憩いの場所として岡山の土地をえ
らんだのはべつに不思議でもなんでもない。そこで岡山へやってきた金田一耕助は、さっ
そく県の警察本部につとめている、お馴な染じみの磯川警部を訪ねていった。できれば警
部にしかるべき静養地を紹介してもらおうという魂胆だった。
ところがあにはからんや、岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても厄
やつ介かい千万な殺人事件であった。しかも、その事件の担当者が磯川警部とあってはた
だではすまない。
事件の捜査が暗あん礁しように乗りあげて、磯川警部が四苦八苦、苦慮呻しん吟ぎんし
ているところへ、ひょっこり金田一耕助がやってきたのだから、警部にとっては地獄で仏
にあったも同然だった。金田一耕助がいやおうなしに事件のなかへ引っ張りこまれたこと
はいうまでもない。
金田一耕助は磯川警部にたいする友情としてもひと肌ぬがずにはいられなかった。さい
わい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事
後の煩はん瑣さな手続きから解放された。
そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この薬やく師しの湯なのである。
そこは岡山県と鳥取県の境にちかい、文字どおり草深い田舎だが、ここの湯は眼病に効き
くというので、県下ではちょっとしられた湯治場になっているらしい。
磯川警部も一週間ほど休暇をとって、ゆっくりと金田一耕助につきあうつもりで、きょ
う昼間ここに旅装をといたばかりだったのだが。……