八
隠居所へかつぎこまれたお柳さまは、その後もながく昏こん睡すい状態をつづけてい
た。駆けつけてきた医者によって、どんなことがあっても、絶対に体をうごかしてはなら
ぬと厳命された。
自殺未遂におわった松代はもうじぶんの健康どころではなかった。彼女は昼も夜も隠居
所へつめきって、憂わしげな眼で昏睡状態にある老婆の、いくらかむくみのきた顔を視つ
めていた。それは見るものをして感動を誘うような情景だった。
由紀子の葬式をおわった夜、お柳さまはちょっと意識を取り戻したが、しかし、すぐま
た昏睡状態におちいった。この間における貞二君の気のもみようは、たいへんなものだっ
たようだ。かれはこのまま母を死なせたくなかったらしい。このまま母に死なれてしまっ
ては、じぶんは生涯立ちなおれないだろうと思われるのだった。
かれはしつこく医者にお柳さまの容態について訊ねていたが、医者もそれにたいして判
然たる返事をする自信がなかったらしい。こうした不安な状態のうちに二日とたち三日と
過ぎていった。
「金田一先生」
と、磯川警部はうかぬ顔色で、
「すみませんでした。けっきょくまた先生のご静養をふいにしてしまいましたね」
「いや、いや、警部さん、そんなこと気になさることはないんですよ。これで結構ぼくは
清閑をたのしんでいるんですから……」
「いや、そうおっしゃられるとどうも……」
と、磯川警部はためらいがちに、
「しかし、先生、こうなると由紀子がどうして溺でき死ししたのか、わからなくなってし
まいましたね。自殺か、他殺か、過失死か……」
「警部さん」
と、金田一耕助は空にういたいわし雲に眼をやりながら、
「そのことについちゃご隠居さんが、なにかしってらっしゃるんじゃないでしょうかね
え」
「隠居が……?」
「だって、ご隠居さんは卒倒なさるまえに、由紀子は……由紀子は……と、おっしゃった
じゃありませんか。あのとき、ご隠居さんはなにをおっしゃるおつもりだったんでしょう
ねえ」
「金田一先生」
と、磯川警部はその横顔を視まもりながら、
「あなたはあのとき、隠居がなにをいおうとしていたとお思いですか」
「さあ……」
と、金田一耕助は口許に奇妙な微笑をうかべて、のろのろとした口調で、
「それはわかりませんねえ。ご隠居さんにお聞きしなければ……しかし……」
「しかし……?」
「ええ、そう」
と、金田一耕助はきゅうにいきいきとした眼つきになって、
「警部さん、ご隠居さんはかならずいちどは覚醒しますよ。あのひとにはいいたいことが
あるんです。それをいわないかぎりあのひとは、死ぬにも死にきれないでしょうからね
え」
金田一耕助のその予言は的中した。そのつぎの日の夕方ごろ、お柳さまははっきりと意
識をとりもどした。
それを聞いて金田一耕助と磯川警部は、すぐに隠居所へかけつけたが、意識をとりもど
したとはいうものの、お柳さまは生ける屍しかばねもおなじことだった。彼女は身動きは
おろか、口をきくことすらできなかった。ただできるのは瞬きをすることと、目玉を動か
すことだけだった。