貞二君はしばらく啞あ然ぜんとして、金田一耕助の顔をにらんでいたが、やがてさっと
満面に朱を走らせると、
「そんなバカな……そんなバカな……母は畳を這はうよりほかには、身動きもできない体
だったじゃありませんか」
「いや、それで十分だったんですよ」
と、金田一耕助はお柳さまに聞えるように、大きく声を張りあげて、
「人間を溺死させるには、なにも大海の水を必要としないのです。そこにある耳盥いっぱ
いの水でも、十分に目的を達することはできます。由紀ちゃんはその耳盥に顔をつけた。
そこをご隠居さんがうえからおさえつけた。いや、うえから全身をもってのしかかって
いったのでしょう。ご隠居さんは身動きこそ不自由ですが、そのくらいのことはできま
しょうし、あのとおり肥満していらっしゃるから、由紀ちゃんはそのまま水をのんで死ん
でしまったんです。ご隠居さん、そうでしょうねえ」
お柳さまはまた満足そうにまたたいた。その顔には誇らしげな微笑さえうかんでいるよ
うに見えたのである。
「しかし……しかし……」
貞二君はまだ半信半疑の顔色で、
「由紀ちゃんはなぜ、盥のなかへ顔をつっこんだんです。なぜまたそんなバカなまね
を……?」
「貞二君」
と、そのとき、そばからおだやかに言葉をはさんだのは磯川警部である。
「それは君の質問とは思えないね。薬師の湯は眼病に効くというし、由紀ちゃんは眼病を
患っていたというじゃないか。由紀ちゃんは隠居のまえで洗眼をしていたんだろう。い
や、洗眼をするように隠居がしむけたんだろう。隠居、そうじゃありませんか」
磯川警部の質問に、お柳さまは満足そうにまたたきをすると、また目玉をぐりぐり廻転
させて、窓のほうへ視線を走らせた。
「ああ、そうか」
と、磯川警部は大きくうなずくと、
「ご隠居さん、あんたはそれから由紀子を素っ裸にして、その窓からうらの谿流へ死体を
投げ落したんですね」
お柳さまの満足そうな微笑とまたたき。……
「そして、由紀子の死体は谿流づたいに稚児が淵へ流れていったんですね。それが八時半
から九時半までのあいだの出来事だったんですね」
またしてもお柳さまの満足そうな微笑とまたたきである。
「金田一先生」
と、磯川警部は金田一耕助のほうをふりかえると、
「ありがとうございました。これで事件は解決しました。由紀子の全身についていたあの
擦過傷は、稚児が淵の岩礁でできたのではなく、いや、それもあったでしょうが、それ以
前に谿流をながれていく途中でできたのですね」
金田一耕助は暗い眼をして無言のままうなずいた。
とつぜん、貞二君の咽喉から嗚咽の声がもれはじめた。貞二君は腕を眼におしあてたま
ま、子供のように声を立てて泣きはじめた。
お柳さまが心配そうにその顔を見まもっているのを見ると、金田一耕助がやさしくその
背中に手をかけた。
「貞二君、お母さんがなぜそんなことをなすったか、君にもわかっているでしょうねえ」
貞二君は腕を眼におしあてたまま、二、三度強くうなずいた。