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発端 一
日期:2023-12-22 15:37  点击:231
発端
    一
 名めい琅ろう荘そうというのは東海道線の富士駅から東北約一里強というところにあ
り、最初これをつくったのは、明治の権臣古ふる館だて種たね人んど伯爵だということで
ある。
 このへんは北に富士山を仰ぎ、南に田子の浦を臨のぞみ、風光明めい媚びなことはいう
までもないが、付近に歌うた枕まくらや史跡の多いところである。旧幕時代はここよりひ
とつ東の駅にあたる、吉原が宿しゆく場ば町まちになっていて、大名の泊まる本陣もそこ
にあり、街道誌によると江戸へ三十四里半とあるから、明治になってからも東京からの交
通の便も悪くなかったのであろう。
 伝説によると維新東征の際、官軍の一指揮官としてこのあたりを通りすぎた古館種人伯
爵、すなわち当時の古館庫くら之の助すけは、朝夕富士を望むこのあたりの山水をいたく
賞めでて、おのれもし功成り、名遂げ、顕職にのぼることあらば、必ずこのあたりに広大
なる屋敷を建ててみせんと、はやくから、風光明媚なこの地を卜ぼくしていたということ
である。
 後日位くらい人臣をきわめるにおよんで、古館伯爵は初志を貫徹して、ここ何十万坪か
の敷地のなかに広大な名琅荘を建てたのだが、この名琅荘の建築様式ほど明治の権臣たち
の趣味や嗜し好こうや、また、実質的な要求を端的にしめしている建築物はめずらしいと
いわれる。
 明治の権臣たちのおおくは卑ひ賤せんから身を起こした、いわば成り上がりものであ
る。おそらくかれらは若年のみぎり、当時の支配階級の生活ぶりに、ふかい羨せん望ぼう
と憧どう憬けいの念をいだいていたことだろう。幕末から維新の変動期にあたって、おの
れもし風雲に乗じて天下になすところあらば、あのような生活をしてみせようと、かねて
から野心をみがいていたにちがいない。しかもかれらの憧あこがれていた当時の支配階級
といえばおおくは大名である。
 だから明治の権臣たちの生活ぶりが、大なり小なり旧大名を模して、いたずらに仰々し
さをほこっていたのはいわれなきにあらずなのだが、名琅荘の建築様式にいたっては、そ
れがもっとも端的にあらわれているといわれている。
 一例をとってみれば応接間である。
 むろん応接間などという下げ賤せんな名称はなく、対面の間というのだが、そこは上段
の間と下段の間とにわかれていて、客を引見するとき主人公はその上段の間へ、出しゆつ
御ぎよあそばしますのである。客はおそらく下段の間で、平ひら蜘ぐ蛛ものごとくヘイツ
クバッタことだろう。
 しかし、かんがえてみると、これもむりではないかもしれない。位くらい人臣をきわめ
た古館伯爵には、対等もしくは尊敬の礼をもって遇さねばならぬ客は、日本国内にそうた
くさんはいなかったことであろう。
 ところで、ここに興味のあるのはこの対面の間の構造である。すなわち下段の間の側面
には武者かくしがあり、上段の間の背後の床の間の壁は、どんでん返しになっている。武
者かくしというのはちょっと押し入れみたいな構造になっていて、そこに忍びの武者をか
くしておくのである。そして、客にして異心ありとみてとれば、躍おどりだして取ってお
さえるいっぽう、主人公は倉そう皇こうとして、上段の間の背後にあるどんでん返しよ
り、のがれ出るという寸法になっているのである。
 これはおそらく人心の向こう背はい常ならずとみられた、戦国時代以来の建築様式なの
だろうが、古館伯爵はただいたずらに、古きを模しておのれに箔はくをつけようとしたの
ではない。伯爵にはじっさいそれだけの警戒が必要だったのだ。
 革命に粛清と暗殺はつきものである。古く鎌倉幕府の例をひくまでもなく、ちかくはソ
連の革命が、いやというほどそのようなケースを示してくれた。明治維新もご多分にもれ
ず、古館伯爵もおおくの先輩や同輩が、つぎからつぎへと血の粛清や、刺し客かくの手に
よって、たおされていくのをみるにおよんで、身辺の警戒は厳重をきわめていた。
 名琅荘はそのような必要に応じて設計されたもので、邸内にはいたるところにどんでん
返しや抜け穴があるといわれ、庭の植え込みの一本一本にも、忍びこんだ刺客の狙そ撃げ
きにたいして、死角がつくられるように配慮されている。すなわち主人公の庭のそぞろあ
るきに際して、どの角度からも望見されないように、たくみに植え込みが間ま配くばられ
ているのである。
 この極度の警戒からくる秘密設計のうえに、もうひとつ、この名琅荘の建築様式に、複
雑怪奇の趣をそえているものがある。それは古館伯爵がこれまた旧大名を模した漁色生活
上、必要かくべからざる建築様式である。
 古館伯爵の本邸は品川の御殿山にあった。
 旧大名がその奥におおくの女を蓄えていたように、古館伯爵も品川の邸宅にたくさんの
女を蓄えていた。伯爵のもっとも盛んなときには、そこに十数名の女があり、その大半に
お手がついていたという。それらの女たちは長なが局つぼねに部屋をたまわり、その夜、
その夜の伯爵の好きごころの赴くままに、お召し出しに相成ったり、たまにはお成りに
なったりするのを待ちわびていたものである。これらの長局は廊ろう下かから廊下へとつ
ながっていて、大げさにいえば、ひとつの市街をかたちづくっているようなものである。
 富士の裾すそ野のにちかい名琅荘は、品川の本邸ほど大げさではなかったが、それでも
日露戦争のあとまもなく、政界から隠退した伯爵は、それ以後名琅荘に住むことが多く、
ついにここが終しゆう焉えんの地となったのだが、死ぬまぎわまで数名の寵ちよう姫きを
もっていたという伯爵のことだから、名琅荘の後こう宮きゆうもそうとうのものであった
ようだ。
 さて、まえにいったどんでん返しや、抜け穴などというたくさんの秘密設計に、かてて
くわえてこの長局の構造である。そこで名琅荘はいつのころからか、迷路荘と訛なまって
よばれるようになっていた。
 むろんそれは陰口でもあり、悪口でもあるのだが、しかしいまにして思えば、伯爵には
先見の明があったというべきである。なぜならば、秘密設計のほうはともかくとして、長
局の構造は後年旅館として転身するのに、まことにお誂あつらえ向きにできていたからで
ある。
 さて、この名琅荘にはひとつの血なまぐさいエピソードがある。そして、そのことがこ
れからお話ししようとする、金田一耕助の探たん偵てい譚たんに深い関係を持っているの
で、まずそのことから簡単に記述していくことにしよう。

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07/03 19:26