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発端 二(1)
日期:2023-12-22 15:39  点击:299

 古館種人伯爵は、まえに述べたような極度の警戒のかいあってか、血の粛清にあうこと

もなく、また、刺客の手からもぶじにのがれて、明治四十五年、天寿をまっとうして永眠

した。明治に栄えたこのひとは、明治の最後の年に世を去ったのである。享年六十八歳。

 そして、そのあとをおそうたのが、二代目の一かず人んど伯爵である。

 このひとは初代にくらべると凡庸のうつわであった。かれは親の七光りでいろんな職に

ありついたが、いずれも長つづきはしなかった。それでいて娑しや婆ばっけだけはつよ

く、いろんな事業に手を出しては失敗した。また、ひとにだまされてはかつぎあげられ、

そのとばっちりを食らったりした。そのうえ、若いときから放ほう蕩とうがはげしく、浪

費家でかつ見え坊であった。

 だから、大正年代に入ると、もう品川の家屋敷を維持することができなくなっていた。

そこへもってきて、昭和二年の金融恐慌のあおりをくらって破産の一歩手前まで追いやら

れた。そこで、親類中よってたかって財産整理をしたあげく、一人伯爵の手にのこされた

のは、名琅荘だけになってしまった。親類がなぜ名琅荘だけを一人伯の手にのこしたかと

いえば、ほかの家屋敷が消費専門むきにできているのに、名琅荘はいくらかでも生産むき

にできていたからである。

 父種人伯爵のとおいおもんぱかりか、それとも革命でも起こったら、そこに閉じこもる

つもりだったのか、名琅荘の敷地のなかには水田もゆたかに、それに大きな蜜み柑かん山

やまがあった。その蜜柑山からあがる収益だけでもそうとうなもので、贅ぜい沢たくさえ

のぞまなければ、かなりゆたかな生活ができるはずだった。むろんそのほかにも月々銀行

から、生活費が支給されるようになっていたが、これではまるで禁治産の宣告をうけたも

同様である。

 したがって、一人伯にとってはこの処置はすくなからず不平だった。かれは親類たちが

よってたかって、じぶんを島流し同様の目にあわせたのだと邪推した。

 一人伯は父にならって表面、豪放磊らい落らくをてらっていたが、そのじつ女のように

小心な男だった。

 一人伯の写真はいまでものこっているが、やせぎすで、細面の、どこか女性的なおもざ

しのなかに、太い八はち字じ髭ひげをピーンとおおきくはねあげているのが、滑こつ稽け

いなほど不似合いである。いったい、昆虫などでも弱い存在ほど、いかめしい触角を、こ

けおどかしに振り立てているものだが、一人伯の髭からうける印象がちょうどそれと同様

だった。

 ことに事業に失敗し、破産のうきめにひんしたり、富士の裾野へおっぱらわれたり、い

ろいろ不自由なめにあって以来、かれの女々しい性格はいっそう陰性となり、おそろしく

邪推ぶかくなり、かつまた、猜さい疑ぎ心しんが猛烈につよくなっていた。その邪推と猜

疑心がこうじたあげく、昭和五年の秋、一人伯はとうとう、富士の裾野を震しん撼かんさ

せるような大惨劇を演じてしまったのである。

 その当時の一人伯の妻、加奈子というのは後妻だった。一人伯の最初の妻は辰たつ人ん

どという一子をのこして早世したので、一人伯は加奈子を後添いにむかえたのである。再

婚だから、初婚の夫婦より年齢のひらきの大きいのは当然かもしれないが、それにしても

一人伯夫婦の年齢の差は、世間の口のはにのぼるに十分だった。一人伯は当時五十五歳、

妻の加奈子は二十八歳、じつに二十七ちがいの夫婦だった。

 おまけに、器量ごのみの一人伯が、周囲の反対をおしきって結婚しただけあって、加奈

子はたぐいまれな美び貌ぼうのもちぬしだった。彼女はその日のくらしにも困るような貧

乏華族の娘であったが、その美貌を見染められて、一人伯の後妻になったのである。その

とき加奈子は二十一歳。むろん初婚であった。この夫婦の間にもし子供のひとりでもあっ

たら、あのような大惨劇は起こらなかったのではないかといわれている。結婚して七年、

みごもらなかったのが彼女の不幸であり、一人伯の不幸でもあった。


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07/03 20:00