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第一章 醜聞 一
日期:2023-12-22 15:41  点击:227

第一章 醜聞

    一

 終戦から五年たった昭和二十五年の秋、十月十八日、日曜日の午後二時三十五分。

 東海道線の富士駅からふらりと降りたったひとりの男がある。

 年と齢しのころは三十五、六、鼠ねずみ色いろのうすよごれた合トンビを左腕にかか

え、右手に粗末なボストン・バッグをぶらさげている。着ているものはかなりくたびれた

セルの着物にセルの袴はかま、頭にはくちゃくちゃに形のくずれたお釜かま帽ぼうをのっ

けている。

 その男はあたりを見まわすような眼つきできょろきょろしながら、田舎駅の素朴なプ

ラットフォームから改札口を出ると、そこの売店のまえへ立ちよって、なにかたずねよう

としたが、そのとき、小走りにそばへちかよってきて、声をかけたものがある。

「ああ、先生、金田一耕助先生ではありませんか」

 金田一耕助がふりかえると、相手はニッカーに長なが靴ぐつをはき、手にふとい革の鞭

むちをもっている。金ボタンのたくさんついた、燃えるような臙えん脂じ色いろの制服を

きちんと着て、頭にのっけたふちなし帽子には、横に金文字で『ホテル名琅荘』と、刺し

繡しゆうがしてある。年ごろ二十歳前後の、こういうホテルのボーイなどにはうってつけ

の、色白の美貌の青年がにこにこしていた。

「ああ、わざわざ迎えにきてくれたの。それはご苦労様……? それで車は……?」

「はあ、むこうにございます」

 制服の男にゆびさされて、金田一耕助はおもわず眼を見張った。そこには大きな金の定

紋のついた黒塗り無む蓋がいの一頭立ての馬車がとまっていて、その周囲をめずらしそう

に野次馬がとりまいている。

「あっはっは、これは驚いた。いまどき馬車とはめずらしいね」

「はあ、このほうがきっと、金田一先生のお気に召すにちがいないとおっしゃって……」

「だれが……? 篠しの崎ざきさんが?」

「はあ」

「なるほど、こいつにゃのっけから一本とられた形だね。いかにもあのひとのやりそうな

ことだ」

 荷車に駄馬をくっつけたようなにわか馬車なら、金田一耕助も乗ったことはあるが、こ

のような本物の馬車にのるのははじめてだった。馬も栗くり毛げの逸いち物もつである。

「こいつはなんだか晴れがましいね」

 金田一耕助が照れくさそうに無蓋の馬車にのると、座席にはふかぶかとした猩しよう々

じよう緋ひの毛もう氈せんがしいてあった。美貌の御ぎよ者しやが鞭をくれると、馬車は

ポカポカと小気味のよい蹄ひづめの音をひびかせながら、ひなびた町を走っていく。

「それにしても篠崎さんも物好きだな。どこからこんな馬車を手にいれたんだろ」

「いえ。これはずうっとせんから、名琅荘にあったものだそうです。なんでも明治時分、

伯爵様がお召しになったものを、ちかごろ手をいれて塗りかえましたので……」

「あっはっは。なんだ、明治の遺物か。さりとは篠崎さんも物好きな」

 馬車の音をききつけて両側の家のなかから、女や子供がとび出してきて、車上の金田一

耕助の異様な姿に眼を見張る。自動車とちがって馬車にのると、またいちだんと偉くなっ

たような気がするが、それにしてもあのひとたちの眼には、自分がなにに見えるだろう

と、金田一耕助はくすぐったかった。

「ときに、御者君、ホテル名琅荘はもう開業しているのかね」

「いえ、まだ……来年からとうかがっております」

「それではいまどういうご連中が……奥さんもいらっしゃるの」

「はあ」

 篠崎夫人のことについてはあまりいいたくないらしく、御者は低い声で言葉を濁した。

「そのほかにどういうひと? だれかお客さんがいらっしゃるの」

「はあ、お嬢さんもいらっしゃいます。それから古館元伯爵様も……」

「古館元伯爵……?」

 と、聞きかえして、金田一耕助はギクリと胸をふるわせた。

 古館元伯爵の辰人に、金田一耕助はまだいちども会ったことはないが、あの醜聞事件の

起こった際、新聞に大きく写真が出たのでかれも顔をおぼえている。年格好は金田一耕助

より三つ四つうえだったが、旧華族のなかでも有名な美貌のもちぬしだった。

 古館辰人といえば、金田一耕助がこれから訪問しようとしている、名琅荘のいまの主

人、篠崎慎吾のげんざいの妻、倭し文ず子こ夫人にとっては去年まで夫だった人物であ

る。これをもっとはっきりいうと、古館辰人は自分の妻倭文子を戦後の新興財閥、篠崎慎

吾に奪われたのだ。いや、奪われたことは奪われたのだけれど、のちにはきっぱり倭文子

夫人を篠崎慎吾に譲渡したのだ。売り渡したのである。

 この物語を進めていくにあたって、このことはどうしても必要だから、この間の事情を

もう少しくわしく説明しておこう。

 篠崎慎吾は時代の変動期にまま出現する一種の傑物である。終戦のときかれは陸軍大尉

だったということだが、そのかれが最初に産をなしたのは、終戦直後、軍需物資を格安に

払い下げを受けたことからはじまるといわれる。いや、終戦のどさくさまぎれに、軍の物

資を盗み出したのだという説をなすものもある。

 それからのちのかれはとんとん拍子で、雪だるま式に産をふとらせた。その間にはもち

ろん相当悪どいこともやったろう。法の裏もくぐったにちがいない。しかし、インフレも

いちおう終結し、戦後の混乱した世相にも、どうやら目鼻がつきかけた昭和二十五年ごろ

には、かれはすでに篠崎産業という健全な一流会社をつくりあげていた。

 篠崎産業といえば、銀行方面でも絶大な信用があるといわれるのだから、この新興成金

は、戦後雨後のタケノコのごとく現れ、たちまちにして消滅していった、そんじょそこら

のヤミ屋さんとは、ちょっとちがったところがあったようである。

 この新興成金と古館夫妻のむすびつきはこうだったらしい。

 古館家も一人伯の横死後、親戚の財産整理が効を奏して、品川の本邸なども嫡子辰人の

ものになっていたが、それも戦争のためにもとのモクアミになってしまった。もとのモク

アミどころか、名琅荘の敷地などもいくつにも分割されて、財産税でとられてしまった。

 そして、名琅荘を中心とする八千坪ほどの土地が、さる銀行の抵当流れになっていたの

を、昭和二十三年ごろ手に入れたのが篠崎慎吾だった。もちろん欲に目のない慎吾のこと

だから、行く行くは旅館にでもする肚はらだったが、その当座は週末の静養地として使っ

ていた。

 この名琅荘を手に入れたことから、慎吾ともとの持ち主、古館夫妻と接触ができ、何事

にも抜け目のない慎吾は、古館夫人倭文子の美貌と肩書に眼をつけた。公く卿げ華族の末

まつ裔えいである倭文子は、繊細ですき透るような美人であった。年齢はすでに三十代の

なかばを過ぎているはずなのだが、いちども子供をうまなかった彼女は、まだ二十代にし

かみえなかった。しかも彼女は才知もあり、機略にもとんだ婦人だった。もっともこれは

彼女自身戦後気づいた性格で、そういう性格を引き出し、発揮させたのは篠崎慎吾であっ

たらしい。

 由来、アメリカは民主国だが、それだけに、貴族という肩書に少なからず魅力を感じる

らしい。これに眼をつけた慎吾は、アメリカのバイヤーの接待や饗きよう応おうに、倭文

子を利用することを思いついた。倭文子もよろこんで利用された。およそゴルフよりほか

になんの能もないかにみえる夫と面つきあわせて、日に日にちぢまっていく運命に、身の

すくむような思いをしているより、そのほうが彼女にとっても、どれほど張りあいがあっ

たかしれない。

 それに慎吾は金ばなれがよかった。しぜん彼女はうちを外に出歩く日がおおくなり、慎

吾とともにバイヤーたちを案内して、京大阪方面まで旅行することも珍しくなかった。し

かも、慎吾は戦争中に糟そう糠こうの妻をうしない、陽子という娘がひとりあるきりで、

当時は男やもめだった。

 慎吾と倭文子の噂うわさはしだいに知人のあいだに喧けん伝でんされ、それが夫の耳に

入らぬはずはなかったのだけれど、辰人は恬てん然ぜんとして妻の収入で生活し、また彼

女にせびった小遣いで適当に享楽していた。こういう関係が半年ほどつづいたのち、さす

が恥しらずの辰人も、いやがおうでも、最後の断をくださねばならぬ羽目に追いこまれて

しまった。

 ある夜、かれは品川の邸宅(その時分はまだその邸宅のごく一部分が辰人のものになっ

ていた。むろん何重かの抵当にはいっていたけれど)の応接間で、慎吾と自分の妻が抱き

あっているのを目撃したのだ。

 そのとき、さすがに倭文子はまっさおになり、あわてて裾の乱れをなおしたが、慎吾は

ゆうゆうとして倭文子の体をはなすと、辰人の面前でズボンをたくしあげ、ボタンをかけ

たという。

 篠崎慎吾という男のひととなりをよくしっているひとたちは、それについてこういって

いる。

 おそらくかれは、いつまでたっても煮え切らぬ辰人の態度に業ごうを煮やして、わざと

ギリギリのキワどい場面を見せつけたのであろうと。そこで三者談合のすえ、倭文子は正

式に辰人と離別し慎吾と結婚した。それには慎吾から辰人へ、目の玉もとび出るほどの莫

大な代償が払われたということである。

 このスキャンダルが大きく新聞に報道されたのは、去年の九月のことだったが、そのと

き、金田一耕助を慎吾に紹介した耕助のパトロン風間俊六という土建屋(「黒猫亭事件」

参照)は、小首をかしげてこうつぶやいた。

「篠崎という男は無鉄砲なやつにはちがいないが、他人のかかあに手を出すような男とは

思えない」

 と、暗に倭文子のほうから水をむけたのではないかという口こう吻ふんだった。

 それにしても、その辰人がいま名琅荘へきているとは……? 金田一耕助はなんとな

く、不安に面をくもらせずにはいられなかった。


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07/03 20:31