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第二章 抜け穴から消えた男 一(1)
日期:2023-12-22 15:51  点击:276

第二章 抜け穴から消えた男

    一

 名琅荘も種人伯爵の時代からみると、だいぶん趣が変わっている。まずあの非生産的な

長局がだいぶん縮小されて、それが日本式の客室に改造されていた。金田一耕助が案内さ

れたのは、十畳に八畳のつぎの間つきの豪勢な日本座敷だった。縁側へ出てみるとすぐ眉

まゆのうえに富士山がそびえている。

 ボストン・バッグをぶら下げて、客室までついてきた譲治が、五分ほど話しこんだあと

引きあげていくのといれちがいに、中年の女中が着替えの褞袍どてらと、浴衣ゆかたをい

れた乱れ箱を持ってはいってきた。女中の名はお杉さんという。

「お風ふ呂ろをお召しなさいまし。旦那様は四時にお眼にかかるといってらっしゃいま

す」

 このホテルでは洋室はボーイが受け持つらしいが、和室は女中が御用をうけたまわるこ

とになっているらしい。

「ああ、そう、それはありがたいですな」

 金田一耕助は信玄袋のような手さげ袋のなかから、化粧道具をとりだした。

 新橋から汽車で約四時間。終戦当時ほどではないが、汽車は相変わらず混んでいた。そ

れに風向きの関係か、煤ばい煙えんをもろにかぶって気持ちが悪かった。朝急いだので髭

もろくにそらずにいる。

 手さげ袋のなかに手帳がひとつある。手帳のなかに電報が一通はさんであった。ひらい

てみると、

「ジ ケンアリ スグ メイロウソウヘオイデ オコウ スヘン シノザ キシンゴ」

 居候の権八をきめこんでいる、大森の割烹旅館松月で、金田一耕助がこの電報をうけ

とったのは、けさの九時ごろのことだった。十時ごろ、やっと風間の居所を突きとめて電

話をすると、いってやってほしいとのことだった。ただし、風間にも何事が起こったのか

わからなかったし、だいいち、篠崎慎吾が名琅荘へいっていることすら知らなかった。風

間にそう頼まれるといやとはいえなかった。すぐに返電をうっておいて、午前十時三十二

分新橋駅発の東海道線下り列車にとびのるまでには、かつかつの時間しかなかった。

 広いタイル張りの浴よく槽そうのなかに身を浸していると、けだるい倦けん怠たいの気

が手脚の爪つま先さきまでしみわたる。髭をそるのも億おつ劫くうな気がして、澄みきっ

た温湯のなかにながながと体を伸ばしていると、どこからかフルートの音ねが聞こえてき

た。

 金田一耕助はおやというふうに浴槽のなかで身を起こした。

 そういえばさっきあちらの座敷へ落ち着いたときも、フルートの音らしきものが聞こえ

たが、遠くはるかにはなれていたし、それにそのときはすぐ鳴りやんだので、べつに気に

もとめなかったが、こんどはだいぶんまぢかに聞こえるうえに、長々とつづいているの

で、金田一耕助はおもわず耳をかたむけた。

 曲はドップラーの「ハンガリヤ田園幻想曲」のようである。その音に耳をすましている

うちに、金田一耕助はそこが温かな浴槽のなかであるにもかかわらず、思わずゾクリと身

をふるわせた。

 いったいフルートの音というものは、それがはなやかなメロディーであっても、妙にメ

ランコリックで、哀感を誘うものだが、しかし、金田一耕助が浴槽のなかで身ぶるいした

のは、ただそれだけの理由ではない。

 昭和二十二年椿つばき元子爵家に起こった、あの凄せい惨さんな連続殺人事件を思い出

したからである。あのときは事件の背後につねにフルートの音が流れていたし、しかも、

それが事件の謎なぞを解く重要なキイになっていることに、最後まで気がつかなかったこ

とに、金田一耕助の悔いはあとあとまで残った(「悪魔が来たりて笛を吹く」参照)。

 金田一耕助はけだるそうに浴槽の底に身を沈めたまま、そのフルートの音に耳を傾けて

いた。フルートの音は洋館のほうから聞こえてくるらしい。


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07/03 20:13