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第二章 抜け穴から消えた男 二(1)
日期:2023-12-22 15:53  点击:261

 そこはこの邸内にいくつかある対面の間のひとつだった。まえにもいったとおり、上段

の間と下段の間とにわかれており、どの間も二十畳敷きばかり。そして、その上段の間の

床の間を背におうて、篠崎慎吾が脇きよう息そくにもたれ、ゆったりと洋酒のグラスをあ

げている。

「あっはっは、金田一先生、どうです。わたしもこうしていると、ちょっとした殿様で

しょうが」

 慎吾は節くれだった大きなてのひらに、小さなグラスをまるめこむように握ったまま、

眼め尻じりに皺しわをたたえてわらっている。

 大きな岩のかたまりといったようなかんじの男で、金田一耕助のようなやぼな男には見

当もつかぬ凝った着物を着ているのはよいが、胸がはだけて濃い胸毛がむしゃむしゃとの

ぞいているのは行儀がわるい。腕わん白ぱく小僧のようにラフで、野性まるだしの男であ

る。年齢は四十五、六だろう。事業欲にもえている男盛りの精力が、ギラギラするほど肌

にも胸毛にも浮いている。さっきから飲んでいるのか、白眼に赤い血の筋が走っていた。

「いや、どうも、なにしろたいしたお屋敷ですな」

 金田一耕助が座るところに困ったようにあたりを見まわしていると、

「金田一先生、どうぞこちらへ」

 と、慎吾のうしろにちんまりひかえた老婆が、年齢に似合わぬ若々しい声で、慎吾のま

えの座ざ蒲ぶ団とんをゆびさした。

 慎吾のすぐそばには倭文子がひかえているが、彼女はちょっと頭をさげただけで口もき

かない。つめたく取りすましているところがこの女の身上なのである。

「なあるほど」

 と、金田一耕助も上段の間に座って、下段の間を見おろしながら、

「昔はここから、近う近うなどとやったもんでしょうな」

「あっはっは、このひとなどはそれをやられた口なんですよ。御前様にはまずまずいらせ

られましょうなあんてね。お糸さん、そうなんだろう」

 金田一耕助がふしぎそうに老婆を見返ると、慎吾も気がついたように、

「ああ、金田一先生はご存じなかったかな。このひと初代伯爵、つまり明治の元老だった

ひとですね。そのひとのご愛妾だったひとで、いってみれば生ける文化財みたいな存在で

すな。この、名琅荘にとっちゃヌシみたいなひとです」

 老婆は巾きん着ちやくのような口をすぼめて、ほ、ほ、ほとひくくわらった。

 いったい糸女はいくつになるのだろうか。指折りかぞえてみればもうかれこれ八十ちか

い年ごろだが、柳に雪折れなしというのか、骨の細い華奢な体質ながら、色いろ艶つやも

よく、いまだに昔日の婀あ娜だたる面影をとどめている。着物の着こなしにも、種人伯爵

の寵姫だった昔がしのばれた。

 ただし切り髪にした頭髪はさすがに真っ白で、まえかがみに、ちんまり座っているとこ

ろは、両の掌てのひらにでも乗りそうな感じで、床の間の置き物のような小作りな老婆で

ある。

「金田一先生はたしか倭文子はご存じでしたな」

「はあ、奥さんにはせんにいちど、お眼にかかったことがありましたね」

「はあ」

 と、倭文子はまぶしそうな眼でちらッとわらうと、ほんのりと頰ほおを染めて瞳を他に

転じた。倭文子としてはその当時のことには、触れてもらいたくないというのが本音であ

ろう。

 金田一耕助がせんにといったのは、このひとがまだ篠崎慎吾の片腕となって、アメリカ

人のバイヤーたちの接待係として、腕をふるっていた時代のことである。当時はまだ元伯

爵の古館辰人夫人だったが、いまから思えば、その時分すでに慎吾と関係があったのだろ

う。いずれにしても、いつ見ても美しいと感心せずにはいられない。


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07/06 07:14