日语学习网
第二章 抜け穴から消えた男 二(2)
日期:2023-12-22 15:55  点击:270

 公卿華族の血をひいている倭文子は、一見ほっそりとしてたおやかで、まるで繊細な美

術工芸品を見るような美しさである。とても慎吾のような野性的な男の抱擁に、耐えられ

そうにもない感じだが、こういう女にかぎって、絡みつく蔓つる草くさのような、粘っこ

い強きよう靭じんさをもっているのかもしれないと、金田一耕助は失礼なことを考える。

 このまえ会ったときは洋装だったが、いまは結ゆう城き紬つむぎの着物がよく似合う女

である。とにかく京女特有の負けて勝つという、順応性にとんだ芯しんの強さが、一本

通っているというタイプの女なのである。

「いま来たばかりですが、このへんじつに景け色しきのよいところですねえ。ぼく富士山

をこんなにまぢかに見たのははじめてですよ」

 金田一耕助がお世辞をいうと、

「そりゃなんといっても、古館種人閣下がお気に召して、これだけの別荘をおつくりに

なった場所ですからね。それにきょうは天気がよくってよござんしたね」

「たしか平家の軍勢が水鳥の羽音におどろいて、敗走したというのはこの近所じゃなかっ

たですか」

「ああ、富士沼でございますか。あれはもう少し西になりますが、沼といってもいまはも

う形ばかりになってるんでございますよ」

 糸女は巾着のような口をすぼめて説明すると、にこにこ笑いながら、

「金田一先生は歴史に興味をお持ちでいらっしゃいますか」

「いやあ、そ、そういうわけでもないんですが、ちょ、ちょっと思い出したもんですか

ら」

 金田一耕助はわれながら、柄にもないことを言いだしたものだと大いにてれて、てれる

とこの男のくせで、どもって、口ごもりながら、五本の指でモジャモジャ頭を、めったや

たらとかきまわす。かねてから金田一耕助のこのくせを知っているとみえて、倭文子はま

あというふうに眼もとでわらっている。いや、メイ探偵と名のつく男のやることではな

い。

「このへんは史跡や歌枕の多いところでしてな。それもわたしがこの別荘に眼をつけたゆ

えんなんですが……金田一先生は馬車でいらしたわけですが、馬車で駅からここまで何分

かかりましたか」

「そうそう、お礼があとになって失礼しました。あの馬車には驚きましたな。正式の馬車

に乗るのははじめてですが、いや、もう、晴れがましいような、てれくさいような……時

間を計ってみたんですが、ちょうど二十五分かかりましたよ」

「すると、自動車だとその半分でこれますな」

「東京からの交通の便もいいようですね」

「いまに汽車の時間ももっと短縮されましょうからね。わたしゃこの近所にゴルフ場でも

作ってみようかと思ってるんですよ」

「ああ、それで……」

 金田一耕助は事業のことなどいっこうわからぬ男だが、それでも好奇心も手伝って、

「いまこのお屋敷、部屋数はいくつくらい……?」

「いまのところ大したことはありません。洋間が十、和室が八つくらい、当分はまあ道楽

半分ですが、いずれ拡張するときにゃ、風間君にもひとくち乗ってもらわにゃと思うとる

んですが……」

「そりゃあいつのことだから喜んで乗るでしょう。ときに、いまお客さんがいらっしゃる

ようですが……」

「ああ、三人ほどね」

 と、篠崎慎吾はさりげなく、

「じつはこの家もいよいよ近く、営業を開始することになったので、そのまえにこの家と

由縁ゆかりの深いかたがたに集まっていただき、ひとつ名な残ごりを惜しんでいただこう

というわけですね。それからもうひとつ、打ち合わせしたいことがあるんです」

「由縁の深いかたがたとおっしゃいますと……?」

「つまりこの家のもとの持ち主、古館家のご親戚のかたがた……と、いってもたくさん

じゃありません。辰人さんに辰人さんの母方の叔お父じさんにあたる天てん坊ぼうさん、

つまり辰人さんのうみのお母さんの弟さんに当たるひとで、元子爵だったかたですね。そ

れからもうひとり辰人さんの生なさぬ仲の母だったひとの弟さんで、柳やなぎ町まち善よ

し衛えさん、やっぱり元子爵さんですな。金田一先生、わたしもこのひとと結婚したおか

げで、いろいろとおつきあいができましてな」

 慎吾は大きな掌で、つるりと顔をなであげると、目玉をくりくりさせながらにやっとわ

らった。そんなことを平気でいう男とは思えないが、さりとて、皮肉や当てこすりらし

い、いやな響きのないのはさすがであった。


分享到:

顶部
07/06 06:31