「いや、ところがこのばあさん……いや、失礼、お糸さん、これでこの家にとってはなく
てはかなわぬひとなんですね。と、いうのは、金田一先生、あなた、この家のことをお聞
きじゃありませんか。いろいろ、からくりがあるってこと」
「はあ、その話なら風間に聞きましたよ。どんでん返しや、抜け穴がたくさんあるって話
でしたが……」
「そうです、そうです。ところがそういう仕掛けのうち、わからなくなってる部分がそう
とうあるんですね。最初これを建てた種人閣下は、家ができると設計図を焼きすててし
まった。そして、そういう仕掛けを隅から隅までしっているのは閣下のほかにはこのひと
しかいなかったそうです。だから、先代の一人伯爵の時代で、もうだいぶんわからなく
なってたそうです。いわんや、いまの辰人さんなんか、長くこの家を所持しながら、どこ
にどういう仕掛けがあるのかほとんどしっていらっしゃらない。なにしろ、このひと口が
かたくて、だれにも教えないものですからね」
「だって、旦那様、それが、あたしの財産でござんすもの。……ほ、ほ、ほ」
金田一耕助はさっきから気がついているのだが、慎吾に話しかけるとき糸女はとても
色っぽくなり、小娘のように頰をあからめたりする。そのたび倭文子の繊細な表情がつめ
たく取りすました。
「そうそう、だからね、金田一先生、わたしゃこのひとを飼いごろしにして、おいおい泥
を吐かせるつもりなんですがね。いや、まあ、冗談はさておいて、このホテルの経営など
も、さしあたりこのひとに頼むことにしてるんです。なんしろ、このとおり元気なばあさ
んですからな」
「なるほど、それで金曜日の朝、電話がかってきたというのは……?」
「いや、どうも失礼しました。話が横道へそれちまって……。それはこうです。わたしの
名前できょうの夕方、真野信也というお客さんがいらっしゃるから、ダリヤの間へお通し
して、ていねいにお取り扱いするようにって、そういってきたというんですね」
「なるほど。それでお糸さん、その電話の声を篠崎さんとちがうとは……」
「いえ、ところがなんしろ東京とこちらでござんすでしょう。電話がとおくて……」
「なるほど、それで、その真野信也という人物は、金曜日の夕方やってきたんですか」
「ええ、それがやってきたんです。倭文子、ちょっとその名刺を……」
倭文子が床の間からとりあげて、無言のまま金田一耕助にわたしたのは、いくつかの肩
書きをならべた篠崎慎吾の名刺だったが、その余白に、
「さきほど電話した真野信也氏をご紹介申し上げ候。なにぶんよろしく。糸どの」
と、太い万年筆の走り書きで書いてある。金田一耕助も慎吾の筆跡をしっているが、そ
れはかなり似ているようでもあり、また、ちがっているようなところもあった。
「むろん、あなたはご存じないんですね」
「存じません」
「それで、真野信也というひとがなにか……」
「いや、ちょっと待ってください。そのまえにぜひ聞いておいていただかねばならんこと
があるんですが、あなたは昭和五年にこの家で、血みどろの大惨劇があったのを、お聞き
になってはいらっしゃいませんか」
金田一耕助はギクリとして慎吾の顔を見直した。慎吾はだまって耕助の顔を見返してい
る。ちょっとした沈黙のなかに、倭文子がかすかに身ぶるいをするのが感じられた。
「聞いてらっしゃるんですね」
「はあ。あなたがこの名琅荘をお買いになったじぶん、風間から聞きました。そのころ図
書館へいって、当時の新聞もひっくりかえしてみましたよ。余計なことかもしれません
が、ちょっと興味をかんじたものですからね」
慎吾はちらと糸女と眼を見かわせたのち、
「いや、余計なことどころか、それをしっていていただけると、たいへん話がしやすいん
ですが、それじゃ、あなたはあの事件の際、人間ひとり消えてしまったということをご存
じですね」
「はあ、しってます。左腕を斬りおとされた尾形静馬という人物ですね。だけど、あのひ
とは鬼の岩屋とやらいう洞窟のおくの古井戸のなかへ投身して……」
「いや」
と、慎吾はするどくさえぎって、
「ところが、あの古井戸はのちに……辰人さんの代になって、いちど底のほうまでさらっ
てみたことがあるそうです。しかし、そこには人間の遺体らしいものは、なにひとつな
かった。そのことはここにいるお糸さんはいうまでもなく、倭文子などもよくしってるん
です。倭文子と結婚してからのちのことだったそうですからね」
倭文子はこわばった顔をして機械的にうなずいた。