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第二章 抜け穴から消えた男 二(5)
日期:2023-12-22 15:55  点击:240

「すると、尾形静馬氏はあのとき死ななかった。まだ生きているとおっしゃるんですか」

「いや、それはあなたのご判断におまかせするとして、金曜日の夕方のことをお話ししま

しょう。真野信也という人物がここへやってきたとき、お糸さんが玄関へ出ればよかった

んです。ところがお糸さんにかわって、タマ子というわかい女中が出て、この名刺をお糸

さんに取りついだ。そこでお糸さんはダリヤの間へご案内するようにとタマ子に命じた。

お断りしておきますが、西洋の草花の名のついているのは洋館なんです。さて、しばらく

してお糸さんがダリヤの間へご挨あい拶さつにあがると、ドアには中から鍵がかかってい

て、いくらノックをしても返事がない。それではどっか散歩にでもでられたんだろうと、

そのときは気にもとめなかったが、夕食時分になってもなんの音おと沙さ汰たもない。し

かも、だれもその人物をこの家のなかで見かけたものはない。そこでお糸さんが不安をか

んじて、合鍵でドアをあけると、なかはもぬけのからで、鍵だけがマントルピースのうえ

においてあったそうです」

 慎吾がプッツリ言葉をきると、しいんとした沈黙が一同のうえに落ちてきた。

 どこか遠くのほうで鵙の鳴く声が、いっそうこの沈黙の味のふかさを際立たせる。金田

一耕助はやっと咽喉にからまる痰をふっきると、

「お糸さん、その部屋にはたしかに鍵がかかっていたんですね」

「はあ、かかっておりました」

「窓は……?」

「窓も全部なかから掛け金がしてござんしたの」

「すると、その部屋にもしや抜け穴が……?」

「そうです、そうです。金田一先生、ダリヤの間に抜け穴があることはわたしもしってい

たんです。倭文子におしえられて、おもしろ半分抜けてみたこともあるんです。だから真

野信也なる人物が、ダリヤの間から消失したということ、そのこと自体はべつに神秘でも

なんでもない。ただ、問題は真野信也とは何者か、どうしてその抜け穴をしっていたか。

……」

「いったい、それはどういう風ふう態ていの人物……?」

「さあ、それなんです。お糸さんは女中たちを怖がらせちゃあと思ったもんだから、さり

げなく、急に用事でも思いつかれて、外出されたんだろうと取りつくろっておいたそうで

すが、タマ子の話によると、真野信也なる人物、肩の付け根から左の腕がなかったそうで

す」

 金田一耕助はそのとき、さっき馬車のなかから遠望した、雑木林のなかの男のうしろ姿

を、はっきり脳のう裡りに思いうかべていた。あの男の洋服の左の袖も、妙にヒラヒラし

ていたではないか。

「タマ子が名刺を取りついだとき、たったひとこと、左腕のないお客さんだといってくれ

るとよござんしたんですけれど……」

 と、糸女がくやむように、巾着のような口をもぐもぐさせる。

「それで、その男の人品骨柄は……?」

「それがタマ子にもはっきりいえないんですね。ただ、大きな黒くろ眼鏡めがねをかけ、

感冒よけのマスクをかけていたこと。黒い背広を着ていたこと。右手にスプリングをかか

え、スーツ・ケースをぶらさげていたこと。黒い鳥打ち帽をかぶっていたこと。口はほと

んどきかず、年と齢し格好もわからなかったということ。……」

「それで、スプリングやスーツ・ケースは?」

「それがなんにものこっておりませんの。いったい、なんのためにやってきたのか、

ひょっとすると、まだこの家の中に隠れているのではないかと思うと、なんだか気味がわ

るうござんして……」

「尾形静馬という人物は、生きていればことしいくつ……?」

「かぞえ年でちょうど四十五になるそうです。ねえ、金田一先生、辰人君が井戸をさらっ

て、そこに人間の遺体らしいものが、なにひとつないとわかっていらい、古館家にとって

片腕の男はひとつの悪夢になっているようです。いつかそいつがかえってくるのじゃない

か、血みどろの白刃をふるって、いつか躍りこんでくるのじゃないかと。……」

 金田一耕助はあきれたような顔色で、慎吾と糸女の顔を見くらべながら、

「しかし、だれがそんなことを怖れてるんですか。古館家のひとびとのなかで……」

「それはやっぱり辰人さんでございますわねえ。あのひと、それが気になるもんですけ

ん、井戸の底をさらってみたりなさいましたの。そして、そこに人間の名残りらしいもの

がなんにもないとわかっていらい、あのひと、いつもそれを苦に病んでおいでなさいま

す」

 倭文子のほうに気をかねながら、糸女は沈んだ調子でしんみりという。


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