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第二章 抜け穴から消えた男 二(6)
日期:2023-12-22 15:56  点击:257

「しかし、お糸さん……ああ、いや、お糸さんとお呼びしてよろしいですか」

「ええ、ええ、そうお呼びになってくださいよ。あたしはこの旦那様に、身ぐるみ買って

いただいた女でございますけんなあ。ほ、ほ、ほ」

 と、糸女は巾着の口のような唇をほころばせた。

「それじゃ、お糸さんにおたずねしますが、辰人さんはなんだって、尾形静馬なる人物を

怖れなければならないんです。なるほど、尾形静馬なる人物は一人伯爵から不義の汚名を

きせられて、左腕を斬り落とされた。しかし、その返報として、もののみごとに一人伯爵

を斬り殺しているじゃありませんか。なにもその伯爵の遺族のかたがた、たとえ継嗣とは

いえ辰人さんになんの怨うらみもないはずだと思いますがねえ」

 もっともな金田一耕助の意見だったが、だれもそれにたいして答えるものはなかった。

金田一耕助は妙にだまりこくった三人の顔を順繰りにみていたが、

「奥さん、あなた、その点についてどうお考えですか」

 と、だしぬけに名前をさされて、倭文子ははっと冷たい顔に動揺の色をうかべて、

「はあ、……それはやっぱり……あのひと、根が神経質にうまれついておいでなさいます

から……」

「それに、金田一先生」

 と、慎吾がこの美しい妻をかばうように、いわおのような膝ひざをゆすりだして、

「一家の中に、そういう血なまぐさいエピソードが過去にあったとすると、遺族のひとた

ちにとっちゃ、長く悪夢となって尾をひくのは、当然じゃないですか。理屈を超越し

……」

「なるほど、なるほど、そういえばそんなもんでしょうなあ」

 と、金田一耕助はわかったような、わからぬような顔色で、まじまじと三人の顔を見く

らべていたが、そのとき、慎吾がいちだんと語気を強めて、

「ところがねえ、金田一先生、ちかくあのとき横死した一人伯爵や加奈子さん、すなわ

ち、辰人さんにとっては実父と継母の二十一回忌がめぐってくるんですよ。明後二十日が

その日に当たっているんです。その法要についての打ち合わせもと思っているやさきです

から、このばあさんが気にするのもむりはないんです」

 と、そういう慎吾の言葉のなかには、なにかしら血のしたたるようなひびきがあるの

で、一同ははっとしてかれの顔を見なおした。とりわけ夫の顔をぬすみ見る倭文子のおも

てを、一瞬かすめた恐怖の影が、金田一耕助にとっては印象的だった。

 当然、そこに重っくるしい沈黙が、一同のあいだにしいんと落ちこんできたが、静まり

かえったこの広い屋敷のどこからか、ふたたび三たび悲鳴のようなものが聞こえてきたの

はそのときである。それがだんだんちかくなるので、一同がおもわず顔を見合わせている

と、やがて、その悲鳴はバタバタとお入側をふむ足音となり、

「パパ!……パパ!……」

 と、若い娘の金切り声となって近づいてきた。

「あら、あれ、陽子お嬢さまじゃございませんか」

 と、糸女が叫び、場合が場合だけに一同がギクッと腰を浮かしかけたところへ、

「パパ!」

 と、ころげるように入ってきたのは、はたして慎吾の先妻の娘陽子である。スポーティ

な洋装がこの場の空気をパッと明るくした。しかし、なにに怯おびえたのかその陽子は、

恐怖に顔面を硬直させている。

「陽子、どうしたんだ。なにをそんなに仰々しい……」

「だって、パパ! 人殺しよ、人が殺されてるのよう。早くきてえ」

「ひ、人殺しだって……?」

「そうよ、そうよ、人が殺されてるのよう」

「殺されてるって、いったいだれが……?」

「古館のおじさまよ。古館のおじさまが殺されてるのよう!」

 慎吾は啞然とした顔色でがっくり顎あごがさがったが、その刹せつ那なさぐるように夫

の顔をふりかえった倭文子の視線が、ふたたびひどく印象的だったのを、金田一耕助は長

く忘れることができなかった。

 時刻はちょうど四時二十分。


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07/06 06:17