二
この事件の捜査主任、田原警部補というのはさいわい金田一耕助をしっていた。金田一
耕助はかつて、静岡県に属する月琴島という孤島を中心として起こった事件(「女王蜂」
参照)で活躍したことがあるので、静岡県の警察界では、かなり名前をしられているらし
い。
「やあ、これは、これは……金田一先生とごいっしょに仕事ができるなんて、はなはだ
もって光栄のいたりですな」
慎吾から紹介をうけたとき、田原警部補は白い歯をだしてわらったが、それはまんざら
お世辞とも思えなかった。まだ若い田原警部補はせいぜい五尺三寸くらいの短軀で、色白
の柔和な顔に縁なし眼鏡をかけ、一見温厚な人柄にみえたが、がっちりとしたその体格は
精せい悍かんの気があふれており、また功名心に燃えているようにもみえた。
「先生、まだ詳しい話はきいていないんですが、なんだかだいぶんむつかしい事件のよう
ですね。ひとつよろしくご協力願います」
と、如才なく付け加えることも忘れなかった。
そういうわけで、金田一耕助は係官の現場捜査に立ち会うことができたが、そのまえ
に、
「篠崎さん、それじゃあとで主任さんからみなさんにたいして、訊きき取りがございま
しょうから、ここはいちおうお引き取りになってください。だいたいの事情はわたしか
ら、主任さんにお話ししておきますから」
「ああ、そう、それじゃ、金田一先生、万事よろしくお願い申し上げます」
慎吾が糸女をひきつれて、天坊邦武や柳町善衛とともに立ち去ると、さっそく捜査陣の
活躍がはじまった。まず、現場の模様や馬車のなかの死体の状態があらゆる角度から撮影
されたが、その間、なんども田原警部補は、嘆声とも喊かん声せいともつかぬうめき声を
発していた。
「なるほど、これは妙な事件ですな、金田一先生。犯人はなんだって被害者の首をしめた
んでしょうな。ああして被害者が後頭部をわられているところをみると、犯人はそれだけ
で殺害の目的を達することができたでしょうのにねえ。それにまた、なんだって馬車のな
かへ乗っけたんでしょう」
この若い警部補はいささか饒じよう舌ぜつがすぎるようだが、必ずしもそれがむりとは
いえないのは、どう見てもこの殺人事件には奇妙なところが多過ぎた。
このことは金田一耕助のみならず、この死体を目撃した、九人の男女もみないちように
感じとったにちがいない。古館辰人は馬車のうえで殺されたのではない。そのことは、馬
車の背後にまわってみるとすぐわかった。辰人は後頭部に致命的な一撃をうけているので
ある。皮膚が裂けて少し血が流れている。頭ず蓋がい骨こつに異常があるかないかは不明
だけれど、この一撃がそうとうのダメージを与えたであろうことは、馬車の背後へまわる
とすぐわかる。
馬車の座席にすわっている辰人の後頭部に、そういう強烈な打撃をあたえるということ
は、犯人がだれにもせよ、凶器がどのような種類のものであるにせよ、ほとんど不可能で
あると思われる。いや、もしそれが可能にしろ、その瞬間、辰人の姿勢は崩れたはずであ
る。
さらによりいっそう不可解なのは、辰人にとって後頭部の一撃が、致命傷となったので
あろうかという疑問である。辰人の咽いん喉こう部ぶから頸けい部ぶへかけて、ドス黒く
もなまなましい索条の跡が、くいいるように印せられているのである。犯人は被害者の後
頭部にまず一撃をくわえた。おそらく被害者はその一撃で昏こん倒とうしたことであろ
う。犯人はしかしその一撃だけでは、被害者が息を吹きかえすかもしれないことをおそれ
て、昏倒している被害者の首を、なにか索条ようのもので絞め殺したのであろう。
いずれにしても、辰人は馬車の上で殺されたのではない。ほかの場所で殺されてから、
ここへ運びこまれたか、この倉庫のなかで殺されたにしろ、それは馬車の上ではなかった
と思われる。そういえばこの倉庫のなかには、被害者の首を絞めるには、おあつらえむき
のロープがふんだんにある。犯人はどうやら被害者を殺害したのちに、馬車の上へ運びあ
げたらしいのである。しかし、それにはなにか深い意味があるのだろうか。それともこれ
はたんなる戯画カリカチユアなのか。