戯画といえば、辰人の服装そのものがすでにおかしかった。美貌を売りものの、スタイ
リストの伊達男としては、たいへん粗末な服を着ている。背広は背広だがひどく古びてい
て、下に鼠色のこれまた古ぼけたトックリ・セーターを一着におよんでいる。銀鞍白馬の
貴公子としては、あるまじき服装である。おまけにかれの左腕は背広のしたで、ベルトで
強くセーターを着た胴に緊縛されていた。殺されるまえ辰人は、このようなラフな姿で、
いったいなにをしていたのであろうか。
その馬車のまわりではいま係官が大勢、忙しそうに立ちまわっている。現場写真の撮影
や指紋の検出がおわるのを、警察医が待っているのである。
田原警部補は、精力的にくるくる動きまわりながら、それらにいちいち指令をあたえて
いたが、やがて金田一耕助のそばへもどってくると、
「ねえ、金田一先生、この名琅荘というのはずうっと昔、昭和の初期にも凄すごい事件が
あったって話ですが、先生はその話きいておいでになりますか」
「ああ、その話、主任さんもご存じですか」
「ええ、そりゃもう。……こっちへ赴任してきてから、耳にたこができるほど聞かされて
ますからね。もっともいまじゃ伝説的に尾お鰭ひれがついて、多少眉まゆ唾つばもんだと
思われる節がなきにしもあらずですが……」
「たとえば、どういう点が……?」
「いや、その事件の大立て者に尾形静馬という男がいるんです。先生、ご存じですか」
「ええ、聞いております。左腕を斬り落とされたまま、いまだに行ゆく方え不明になって
る人物ですね」
「そうそう、それそれ、その男がね、ときどき幽霊みたいにこの別荘の周辺にあらわれ
るっていうんです。つまり、左腕のない男が怨めしそうに、悲しそうに、名琅荘の周囲の
林のなかを徘はい徊かいしているのを目撃したってえ人物が、このへんにゃ相当たくさん
いるんですよ。その目撃者のなかにゃ町の歯医者だの、中学の先生だのっていう、相当の
インテリがいるんだからあきれるじゃありませんか」
金田一耕助はちょっと考えたのち、
「主任さん、それいつごろの話なんですか。最近のことなんですか」
「いや、いつって特別にきまっちゃいないんです。あの事件があっていらい現在にいたる
まで、思い出したようにちょくちょく現れるというんです。だから、ここに両説があって
町でも対たい峙じしてるんですよ。いっぽうはごく平凡な幽霊説なんですが、もういっぽ
うというのが……」
と、田原主任はにわかにあたりを見まわすと、声をひそめて、
「ほら、いまここにお糸ってばあさんがいたでしょう」
「はあ……」
「あのばあさんがその尾形って男を、ひどく可愛がっていたんだそうです。しかも、この
名琅荘ときたひにゃ、やたらに抜け穴やどんでん返しがあって、それを隅から隅までしっ
てるのは、あのばあさんだけだというんですね。だから片腕男の尾形静馬は、いまだにこ
の名琅荘のどこかにかくまわれていて、それがときどき退屈して、散歩に出るんだろうっ
ていうんです」
「なるほど、それはうがった説ですね。しかし、だれかその片腕男をまぢかにたしかめた
ひとがあるんですか」
「いや、それがねえ、金田一先生、みんなうまいこといってますよ。とっても相手が敏び
ん捷しようだとか、魔性のものだからとてもひとを寄せつけないとか、合理派は合理派
で、名琅荘の邸内のみならず、この周辺いったいに、秘密の抜け穴があるんじゃないかっ
てね。しかし、これを要するに、みんなそばへ寄ってたしかめるのが怖いんですね」
「なるほど」
と、金田一耕助はいまの話をかみしめるように聞いていたが、
「いや、主任さん、たいへんおもしろいお話を、聞かせていただいてありがとうございま
した。ところがねえ、主任さん、その話がこんどの事件にも尾をひいてるようですから、
ひとつ、それをよく念頭にとめておいてください」
「ああ、そうですか。わたしもなんだかそんな気がして……あの馬車のなかの死体、あ
りゃたしか名琅荘のせんの主人、古館辰人さんのようですが、あのひとなんだか、左腕が
おかしいようじゃありませんか」
「ああ、そう、それじゃあなたは辰人氏をご存じだったんですな」
「そりゃ、先生、わたしゃここの警察の捜査主任ですからな」
「ああ、そう、それは失礼しました」
「いや、いや、先生、べつに威張るわけじゃありませんが、終戦の翌年ここへ赴任してき
ましてね。なんといっても、当署の管轄区内で起こった事件のなかではいちばんの大物で
しょう。しかも、いまだに幾多の疑問を残してるんですから、わたしはわたしなりに、い
ろいろ臆測をたくましゅうしてきたってわけです」
「ああ、そう、それじゃ、ひょっとすると、いまここにいた禿とく頭とうのご老体とルパ
シカの人物もご存じじゃありませんか」
「禿頭のほうはしってます。この被害者の叔父にあたる元子爵の天坊さんですね。しか
し、ルパシカのほうは……?」
金田一耕助がひとこと名前をいっただけで、この功名心にもえているわかい警部補に
は、それがどういう人物であるかわかったらしく、ヒューッとひと声口笛を吹き鳴らす
と、
「呉ご越えつ同舟というか、そら、また、珍しい人物が落ちあったもんですな」
そういう警部補の口吻から察すると、かれは一人伯爵が逆上にいたるまでの裏面の事情
にも、かなり精通しているのではないかと思われた。もし、それならば金田一耕助も、説
明の労がはぶけて助かるのである。