「あ、そ、それは……」
譲治の全身はもののみごとにまっかに染まった。あわててとびつこうとするのを、
「おっと、どっこい!」
と、すばやく握り拳をひっこめた老刑事は、自分の鼻先でパッと掌をひらくと、わざと
感にたえたようにしげしげながめながら、
「なかなかしゃれたコンパクトだが、これタマ子のものかい」
譲治はいまや窮地におちいった。七面鳥のように赤くなったり青くなったり、眼を白黒
させているのを尻眼にかけ、
「二段ベッドの上の段の、乾草がほどようくぼんでいて、しかも、乾草のなかにこんな
色っぽいものが落ちているなんて、おい、坊や、この謎なぞをなんと解く」
金田一耕助はさっきから、吹き出しそうになるのをこらえていたが、ここにいたって、
田原警部補と速記係の若い屈強の小山刑事は、やっとその謎が解けたらしく、場所がらを
もわきまえず、ゲラゲラ笑い出した。
「なるほど、そうか。そいつはお安くないね」
「主任さん、デカなんて因果なショウバイですぜ。ひとの濡ぬれ場のあとを嗅ぎつける
と、ごていねいにも、乾草の匂においのほかに、もうひとつちがった匂いも残ってやしね
えかと、鼻くっつけて、クンクンそこいらを嗅ぎまわるんですからな」
「それでおやじさん、ほかの匂いも残ってましたか」
若い小山刑事がおもしろそうに口を出すのに、井川老刑事は怒った狸のような眼をむけ
て、
「てめえは黙ってすっこんでろ。てめえはな、前代未聞の恐ろしき殺人が演じられた現場
から、ほど遠からぬところにおいて、おなじころ、眉み目めうるわしき男と女のあいだ
に、世にも情緒纏てん綿めんたる濡れ場が演じられていたのであアると、そう書いときゃ
いいんだ。な、坊や、そうだろう」
「なんとでもおっしゃいよ」
譲治もすっかり度胸をきめたらしく、ふてくされたような態度を露骨にみせて、
「だって、仕方がないじゃありませんか。こっちへきてからまもなく、あの娘を一人前の
女にしてやったんでさあ。そしたらあいつ、すっかり味をおぼえやアがって、ぼくの顔さ
えみりゃアせがむんでさあ。だからちょっとね。うっふっふ。だけど、刑事さん、そんな
こたあこんどの人殺しと、なんの関係もないじゃありませんか」
まさにそのとおりであった。見ようによってはこの古狸の老刑事は、譲治のために無罪
を証明しているようなものである。この変てこな殺人をやってのけたすぐそのあとで、女
と情事を遂行するほどのくそ度胸は、この坊や坊やした青年にはないであろう。
「だからよ。倉庫のほうであの騒ぎが起こったとき、てめえたちがどういう状態だった
か、主任さんにご説明申し上げたまでのことさ。ときにことはもう終わってたのかい」
「やだなあ。ええ、ええ、もうすんでましたよ。ふたりでうっとりしてたんでさあ。そし
たら倉庫のほうがなにやら物騒がしいでしょ。それで、タマッペとふたりで来てみたらあ
れでしょう。ぼく、すっかりおったまげちゃって。……」
「ところで、譲治君」
狸刑事のとんでもないスッパ抜きに、抱腹絶倒していた田原警部補も、やっと平静をと
りもどすと、
「馬車のうえにいた被害者、すなわち古館辰人氏だが、それ、雑木林のなかを走っていた
片腕の男と、おなじ人間だと思うかね」
「ぼくはおなじ人間だと思います。洋服の色といい、襟からのぞいていたトックリ・セー
ターの首といい……」
「なるほど」
そうだとすると犯行の時刻が、非常に限定されてくるわけである。
「ときに、坊や、おめえこれに見憶えはねえかい」
この狸刑事は手品師みたいである。こんどパッとひろげてみせた、掌のうえにのっかっ
ているのは、ハンカチにくるんだマドロス・パイプ、パイプは柄のところでまっぷたつに
折れている。