「ああ、それから自分の部屋へかえって、ベッドのうえに横になっていたよ。わたしのあ
てがわれた部屋は二階のヒヤシンスの間というんだが、そこでうとうとしていたら、けた
たましい女の悲鳴がきこえたので、なにごとだろうととび出したら、それが陽子という娘
の叫び声だったわけさ。四時二十分くらいのことだったかね」
「すると、三時から四時まではひとりっきりで、ご自分の部屋にいられたわけですね」
「ああ」
「そのことについてだれか証明できるひとがありますか。あなたがヒヤシンスの間に閉じ
こもっていられたということについて……」
「さあねえ、わたしはいちいち奉公人たちに、これから部屋へさがってやすむからなんて
断りはしなかったからねえ。しかし……」
と、天坊氏はわざと大げさに眉をひそめて、
「まさか君たちはこのわたしに、疑いをかけているんじゃあるまいねえ。わたしは辰人と
いう男になんのふくむところもないし、あの男を殺したところで、わたしにとっては、一
文のとくにもならないことだからな」
「いや、それはそれとして、あなたと篠崎さんとの話はどういうことでした」
「それはこの事件とは関係のないことだよ。辰人とはまったく別の話だ」
「しかし、もしおさしつかえがなかったら聞かせていただきたいんですがね。どういう種
類の話であったかというその輪郭だけでも……」
このときはじめてこの旧華族は不愉快そうな色を露骨にうかべて、
「取り引きの話だよ、ある種のね」
「ある種の……と、おっしゃいますと?」
「ある骨こつ董とうのコレクションについてだ」
吐き捨てるようなその言葉が唇くちびるから出るとき、天坊氏の頰にさっと屈辱の色が
走るのをみて、田原警部補は気がついたように、
「いや、これは失礼いたしました」
と、あわててデスクのうえに頭をさげた。
思うに落らく魄はくしたこの旧老貴族は、羽振りのいい新興財閥相手に、骨董のブロー
カーかなんかやって、身すぎ世すぎをしているのだろう。しかも露骨にそのことをセンサ
クされるのは、やはり昔のプライドをうずかせることになるのにちがいない。
「それじゃ、もうひとつおたずねいたしますが、古館氏と篠崎さんのお話というのは、ど
ういうことだったかご存じじゃございませんか」
「その話なら篠崎君に直接きいたらどうだね」
「はあ、それはもちろんそのつもりですが、念のためにお聞かせ願えたら……と。なんで
も古館氏の企画した事業を、篠崎さんがバック・アップされるとか……」
「ああ、そんな話だったな。詳しい内容はわたしもしらんのだが……」
「しかし、篠崎氏ご夫婦と古館氏のなかは、その後うまくいってたんですね」
「そりゃそうだろう、事業の後援をしようというくらいだからな」
「しかし、男同士はそうして割りきっていても、奥さんのほうはどうでしょうか。あんま
りいい気はしないんじゃないでしょうか」
「そりゃそうだろうが、わたしには倭文子のような女はわからんな。あの女は昔っからわ
たしにとっては謎だった」
「昔っからとおっしゃると……?」
「いや、あれはな、元来柳町と結婚する約束になっていたんだ。ところが、どたん場に
なって柳町を裏切り辰人と結婚したんだ。ふつうなら自分の裏切った男にあうのは、多少
後ろめたかったり、面おも映はゆかったりするのがほんとうだと思うんだが、あの女は平
気なんだ。法事やなんかで柳町と顔あわせても、眉ひとすじ動かすことじゃない。柳町な
んて人間、これまで、全然存在すらしらなかったかのごとき態度なんだ。気が強いという
のか、冷たいというのか……」
「それじゃ、柳町さんのほうはどうです。倭文子さんに対していまでもなんらかの感情を
抱いていらっしゃるというようなことは……?」
「さあね」
と、天坊氏は太い八字ひげをひねりながら、
「まさかとは思うが、あの男もわたしの理解をこえた存在だな。きのう汽車のなかで聞い
てみたら、まだ独身だということだったが、それが倭文子にたいする失恋からきているの
かどうか。……まあ、わたしのしったことじゃないね」
天坊氏の態度や口こう吻ふんは、またもとの無関心で投げやりな調子にかえっていく。
大きな腹をつきだして、だらりと椅子のなかに身を投げだしているところは、ちょっと奇
型的だが、いかにも退屈でつまらなそうである。いや、わざとそれを強調しているように
もみえるのである。