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第十二章 鬼の岩屋 二(2)
日期:2023-12-28 13:58  点击:260

 金田一耕助はそこにもうひとつの足跡はないかとさがしてみたが、その結果は失望にお

わった。しかし、この白砂の河床も壁際までいくと、粗あらい、ゴツゴツとした熔岩のよ

うな礫こいしに縁どられているので、壁づたいに用心ぶかく、そこを歩いていったとすれ

ば足跡ものこらなかったのではないか。

 金田一耕助はさりげなく譲治の顔色をうかがっているのだが、そこにはなんの反応も現

れていなかった。

「柳町さん、ときに冥めい途どの井戸とか、地獄の井戸とかいうのは……?」

「いってみましょう。ただし、この足跡は念のためにとっておいたほうがよさそうです

ね」

 そこにのこされた二条の足跡をさけながら、柳町善衛が先頭に立って歩きはじめ、他の

五人もそれにつづいた。砂をぬらしている水は思いのほかふかくて、草ぞう履りばきの金

田一耕助は、踝くるぶしのへんまでのめりこむことがあり、足た袋びをとおしてしみいる

地底の水のつめたさは、骨を刺すばかりである。

 懐中電灯の照射距離がのびるにしたがって、白砂の河床は奥へおくへとひろがっている

ように思われた。だれも口をきくものはなく、ただサクサクとぬれた砂を踏む音ばかり

が、この際さわやかというより無気味であった。

「気をつけてください。ゆうべも申し上げたとおり、井戸というよりクレバス……岩の亀

裂ですからね。枠わくもなにもないのですから」

 ものの十間も歩いたじぶん、柳町善衛が一同に注意したが、その声はさっきにくらべる

と陰にこもっているようだ。気がつくと左右の壁はうんとせばまってきていて、この洞窟

の入り口ほどではないにしても、嶮けん岨そなトンネルがゆくてにつづいているらしい。

あの見事な雪渓はそこで終わろうとしているのである。

「ほら、これ……」

 先頭に立った柳町善衛がとつぜん立ちどまって、懐中電灯の光を足もとにむけた。

 雪渓はそれより少しまえにおわっていて、そこから爪つま先さきのぼりの固い岩床に

なっている。金田一耕助はそれが巨大なひとつの岩であることに気がついていた。その岩

床と右側の壁が癒ゆ着ちやくしているところに、奥にむかって大きな亀裂ができていて、

それが底なしの井戸となって、真っ逆様に落下しているのである。亀裂のはばは広いとこ

ろで二間くらい、縦は七、八間にもおよんでいて、大きな弓型をなしている。

 この危なっかしいクレバスの周囲に立って、六本の懐中電灯の光こう芒ぼうが、いっせ

いに井戸のなかへむけられたとき、一同は眩くらむように体の平衡感をうしなった。懐中

電灯の光芒は数丈の遠くにまでおよんだのに、まだそのさきはるかに、亀裂の深しん淵え

んがつづいているらしい。冥途の井戸とも地獄の井戸ともいわれるのもむりはないと思わ

れた。

「これだから昭和五年の事件のあと、辰人さんが、このクレバスの底をさぐろうとして失

敗なすったんですね。しかもこの亀裂の深部には有毒ガスがたまっているらしい」

 このえたいのしれぬ深さをもつ闇やみの地底に、尾形静馬の死体が片腕のない白骨と

なってよこたわっているのであろうか。……それを思うと金田一耕助は、鳩みぞ尾おちが

いたくなるような恐怖をおぼえずにはいられなかった。

「ところでここから奥はどうなってるんですか」

 金田一耕助はこの無気味な井戸をこえて、さらに奥のほうへ懐中電灯の光をむけた。

 そこはいまとおってきた、雪渓のようなみごとな景観とうってかわって、天井の低い洞

窟がゴツゴツとした岩の層をみせて、深く暗くつづいている。

「私のしっているかぎり、この洞窟の奥をきわめたひとはないようです。ぼくはそうとう

奥まで探検しましたが、この地底のトンネルは果てしなく奥へおくへとつづいているよう

です。しかも奥へすすめばすすむほど、八や幡わたの藪やぶ知しらずみたいに路が分岐し

ているので、いつも怖くなって、途中でひきかえしてくるのです。ところで、金田一先

生」

「はあ」

「これからさきのこの洞窟、名琅荘にある抜け穴と似ているとはお思いになりませんか」

「なるほど、そうおっしゃればそうですね」

「ぼくが思うにあちらの抜け穴も、もとはこういう天然の洞窟だったんじゃないでしょう

か。それを発見なすった初代種人伯爵が、あとから人工的に手をくわえて、ああいうふう

に抜け穴に利用なすったんじゃないかと思うんです」

 さっきからこの驚嘆すべき神の摂理に、心をうばわれていた田原警部補も、話がたまた

ま名琅荘の抜け穴におよぶと、卒然として思い出したように、

「そういえば井川のおやじはどうしたんだ。柳町さん、あなたがゆうべ地の底からの声を

きいたのは、このへんだったとおっしゃいましたね」

「ええ、そうです、そうです。たしかこの井戸のなかから聞こえてきたような気がしたん

ですが……」

「おい、みんな、耳をすませて聞いてみろ。井川のおやじさんが抜け穴のなかで怒鳴るこ

とになってるんだ」

 田原警部補の命令を待つまでもなく、一同はクレバスのふちに身をかがめて、全神経を

井戸のなかの暗闇に集中していた。なかには岩のうえに腹ばいになっているものもある。

速水譲治もそうしていた。


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07/06 06:30