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第十三章 ああ無残 二(4)
日期:2023-12-28 14:04  点击:222

「金田一先生、これ、天坊さんのガウンのバンドじゃありませんか」

 いかさまそれは天坊さんのドレッシング・ガウンと共布でつくった、幅一寸五分ばかり

のウールのバンドである。一部黒い汚点がついているところをみると、絞め殺されたとき

タマ子が血を吐いたのだろうが、どこにも解きほぐされた部分のないのを見ると、そのな

かに貴重品が隠されていたのではないかという、井川刑事の推理はたんなる幻想だったら

しい。それにもかかわらず金田一耕助は、あの際、犯人がなにかを捜していたのではない

かという想定を捨て去ることができなかった。

「譲治君、とにかくタマちゃんをこっちへお渡し」

「いやだ、いやだ、おれ、だれにも渡さねえ。タマッペ、だれにも渡さねえ」

「金田一先生」

 そのときそばから耳打ちしたのは柳町善衛である。

「その少女、鼠にそうとうかじられているんじゃ……」

 柳町善衛の声は低くしゃがれていたが、それでも譲治はききのがさなかった。

「そうなんだ。おれそこの歩み板を渡ろうとしていたんだ。そしたら下で鼠の騒ぐ音がし

たんで、ひょいと見ると鼠がいっぱいたかってなにやらかじっている。それがタマッペ

だったんだ。金田一先生、タマッペの顔をみてやってください」

 譲治はおいおい泣きながら、はじめてタマ子の顔を一同のほうにさしむけたが、そのと

たん金田一耕助はおもわず顔をそむけずにはいられなかった。

 そのときのタマ子の顔をくわしく描写することは控えたほうがよいだろう。それは読者

諸賢に悪お寒かんを催させるだけのことだろうから。

 ああ無残!

 とはこういう場合に用意されている言葉ではないか。タマ子は顔といわず手脚といわ

ず、全身くまなく食い荒らされていて、もうしばらくこのままに放置されていたら、骨だ

けとなって残ったであろう。タマ子の肉体を食い荒らしたおびただしい鼠どもは、いまも

陥没のなかをウロウロしているのである。

 柳町善衛は芸術家だけに、神経がデリケートにできているのであろうか。全身を木の葉

のようにそよがせて、べっ甲ぶちの眼鏡のおくで、その眼は血走っているようにみえた。

 譲治は気が転倒しているので、そこまで思いおよばないようだが、こうまで鼠に食いあ

らされているところをみると、タマ子の死体はそうとうながくそこに放置されていたこと

と思われる。と、するとさっきの悲鳴は?

 この際、いちばん行動的だったのは応援の久保田刑事である。かれはひとめタマ子の顔

に眼をやると、歩み板をわたってはやつぎのカーブの闇のなかに消えていた。

「譲治君、とにかくこっちへあがってきたまえ。まごまごしてると君まで鼠の餌食にされ

てしまうぞ」

「金田一先生、だれがタマ子をこんなことにしやあがったんです。だれがタマ子を鼠の餌

にしやあがったんです。金田一先生、カタキを討ってください。タマ子のカタキを討って

ください」

「ああ、いいよ、わかったよ。とにかくこっちへあがってきたまえ。タマちゃんを手厚く

葬ってあげなきゃ……」

「はい」

 譲治はポロポロ涙を落としながら、まだ凶暴な眼つきをしていたが、それでもタマ子を

抱いてすなおにあがってきた。金田一耕助と柳町善衛が左右から手をかしてやったが、そ

のときふと陥没の底に眼をやると、おびただしい数の鼠がはい出してきて、そこらじゅう

をはいまわっているのがみえ、金田一耕助はミゾオチのへんが固くなるほどの恐怖をおぼ

えた。柳町善衛もおなじものを見たとみえ、哲学者じみたその顔が蒼白になり、細いから

だがはげしくふるえている。

 久保田刑事が小走りにひきかえしてきたのはそのときである。

「主任さん、主任さん、早くきてください。こっちにもひとり、こっちにもひとり女のひ

とが……」

 地下道のむこうから聞こえる刑事の声は、ひどく興奮していて、こもった空気のなかで

とどろきわたった。

「女のひとってだれだ」

 歩み板をわたりながら田原警部補が怒鳴りかえした。

「主任さんは奥村という秘書をご存じですか」

「ふむ、知っている。その奥村君がどうしたんだ」

「その奥村君のいうのに、こっちのお嬢さんの陽子さんというひとだそうです」

「陽子さんも死んでいるのか」

「いや、死んじゃいません。しかし、後頭部をひどくぶん殴られて、虫の息というところ

です」

 ちょうどそこへ遅ればせながら、井川老刑事が駆けつけてくるのを見ると、金田一耕助

は眼を見張って、

「井川さん、あなたその脚をどうしたんです」

「なあに、ちょっくらしくじりをやらかしましてな。年がいもなくお恥ずかしい。おお、

坊や、タマ子が見つかったんだってな」

 そばへよってタマ子の顔をひとめ見るなり、さすが千軍万馬の老刑事も悲鳴をあげてと

びのいた。

「ひでえことを!」

「井川さん、ちょうどよいところでした。あなた譲治君といっしょにあとからきてくださ

い。むこうのほうでもなにかあったらしい」

 田原警部補の一隊は、もう雪崩なだれをうってまっ暗なカーブのむこうに消えていた。

 仁天堂の回り舞台は地下堂のほうからしか、開かない仕掛けになっている。それをだれ

かが背中合わせに立っている金剛像と力士像の背後の羽目板をぶち破ったらしく、お堂の

なかに大きな薪まき割わりがころがっていた。

 秘書の奥村弘が駆けつけてきたとき、陽子はその羽目板の割れ目から、半分からだをお

堂のほうへ乗り出すようにして倒れていたそうである。陽子はその後頭部をなにか堅い、

たとえば金かな鎚づちのようなもので強打されたらしく、そこから流れた血が、彼女の着

ているカーディガンの背後を斑々として染めている。

 傷が骨まで達しているかどうかわからなかったが、彼女は死んではいなかった。ただ意

識を失っているだけなのだが、さっき久保田刑事も指摘したとおり、虫の息であることだ

けはたしかである。

「やれやれ、だからいわんこっちゃない。この迷路荘にはチミモウリョウがとりついてい

るんじゃよ」

 だれかと思えば井川刑事である。跛をひいているせいか、禅坊主のようなことを口走

る、この老刑事の顔はひどく年寄りじみていた。


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